「TAKESHIS’」(2005)は、数ある北野作品の中でも一、二、を争う怪作である。難解を極めた複雑な内容は観客を混乱に陥れ、あまりの不入りに映画公開後たった三週間で打ち切られてしまった問題作だ(信じられないことに「ソナチネ」は一週間だった。金獅子賞以前の話だが)。
監督自身が、観客それぞれが自由に解釈することを希望されているとのことで、この挑戦を受けて立たんとした多くの評論家、映画好き、そして北野ファンたちが解読を試み、ネット上でも数多くの考察が発表されている。様々なレビューを拝読して、誰一人として同じ解釈をしていないのではないかという印象を抱く。誰がどう解釈しても正解、ということなのかも知れないが、監督自身が、製作当時は躁鬱が激しくて編集もめちゃくちゃだった、とコメントしていたり、評論家たちが、夢か現実かわからない不思議な世界に身を委ねて観る作品、などと評していたりして、ただでさえ困惑した観客をさらに振り回している。一般レビューワーの圧倒的多数の意見は、大スターである「ビートたけし」と、売れない役者の「北野」の日常・妄想が交錯し、お互いの世界を侵食し合っていく、という見方だ。また、どの大手の映画関連サイトにも「二人が顔を合わせたその日を境に、『北野』は『ビートたけし』の夢と映画の世界へ迷い込んでいく」といったあらすじ紹介文が載っている。
監督が編集に編集を重ね、わざとパズルのピースのような仕掛けにしてあるのだと多くの方々が指摘しているが、時間軸を超えて、次に起こる現象の予兆のフラッシュフォーワード、またはフラッシュバックのカットの挿入は、北野監督の専売特許のような特徴である(例えば、「3-4X10月」の終盤で武演じるヤクザが自分の最期を予感するシーンや、「HANA-BI」(1997)では、冒頭、車内で二人が同級生だという話をしている最中に、下半身不随になった大杉漣を武が見舞った日のカットが、すでに挿し込まれている)。北野作品のファンにとってはそれほど目新しいことではないので、この感想では編集に関しては言及しないとする。
監督がこの作品のインスピレーションが「フラクタル(自己相似性)」だと話していることから、「たけし」と「北野」に同等のウェイトをかけてしまうのだが、この作品が「たけし」と「北野」の相互作用ではなく、あくまでも「たけし」を主体として一方向的に作用している、と仮定するなら、実はすごく辻褄の合った物語となっていて驚く。
北野監督による自叙伝「女たち」(2008年)の中で、監督本人は「『TAKESHIS’』は、そんなに難しいことじゃなくて、単なる夢の話なんだけどね。夢は、現実の世界と全然関係ない世界なんだけど、実は現実の世界と関係あって、でも配置換えしてしまっているっていうか。」と話しておられるのだが、この作品が「たけし」側の(限定された)現実→(限定された現実に影響された)夢→夢の中の夢→夢の中の夢の中の夢→夢の中の夢→夢→現実、を描いているだけと仮定するなら、批判されるような飛躍や破綻はどこにもない。自己同一化だの、入れ子構造だの、鏡像構造だのと、評論家達がこぞって難しい言葉で飾り立て、難解だと宣伝しただけで、「ソナチネ」が実は至ってシンプルなストーリーであるように、「TAKESHIS’」も実はとても簡単な話なのでは・・・。
理系頭脳の北野監督の狙いは図り知れないが、実は私はこの映画とそっくり似た夢の見方をするので、これはたけしがうたた寝の間に見た短い夢に過ぎない、と考えている。人の脳は睡眠中にその日の出来事を整理整頓して、重要なものは記憶の貯蔵庫に、不必要なものは無意識の彼方に投入するらしく、つまり脳が今日一日分の情報量をおさらいしている間に見るのが夢である。夢の現れ方は人それぞれだが、私の場合はわりと現実に近く、その日心に引っかかった言葉や印象に残った光景が、微妙に姿・形を変えて夢に現れる。起きた時に、あの夢は昨日のあの出来事をベースにしてるな、とわかる程度の変化球である。また人物も、昔の知り合いや同級生などが少し違った役割や人柄となって登場する。私も、夢の中で夢を見ていることもよくある。
この映画が単にたけしの夢の話であるなら、「ビートたけし」が出演している最初の20分間にすべての手がかりが凝縮されている。麻雀、ヤクザの息子、自分に恨みを持つ女、愛人、コップの水、ロールスロイス、タクシー、「どらいち」の頑固オヤジ、花束、毛虫、追っかけファン、美輪明宏、タップダンサー、ゲイのメイクさん、ピエロ、衣裳さん、北野、「コンビニの店員」・「オーディション」という言葉など。その後の1時間30分は、それらをいくつかのレイヤーの夢というプラットフォームの上で、どんどんデフォルメしていくだけの映画である。
私は100%文系の人間なので、フラクタルの計算式などは全く理解の範疇を超えているが、「一部が全体を表す」という概念にだけ着目した場合、この作品はフラクタル構造になっていると言えるのではないだろうか。監督は自己相似をトピックにしたのではなく、メタ的にフラクタルを適用しているのではないか。「たけし」と「北野」が登場するから、誰しも二人の相互的な交流に目を向けてしまうが、この重層的に連続するドリーム・シークエンスの構造自体が自己相似になっているのなら、ものすごく画期的な作品ではないか。インストレーション・アートのような、空間的広がりと奥行きのある、立体的な作品とも言える。駄作などと酷評している場合ではなくなる。
うまく説明できないので、図形で表してみると、まず(A)は現実のビートたけしの日常とする。たけしは刺青のデザインを施されている間に寝落ちしてしまった訳で、そこからは全てがたけしの夢である(B)。たけしはその日、自分に似た男に出会い、色々なことが心に引っかかったまま眠りに落ちた。眠る直前に交わした会話の断片やちょっとした後悔(「ファンの子のプレゼントもらってあげれば良かったかな」など)が夢に現れるのだが、それは現実の完全な再現(コピー)ではなく、夢というデフォルメされた現実である。
「たけし」は夢の中で、「北野」というよく知りもしない人物に、一方的にステレオタイプなイメージ、アルターエゴ(もう一つのペルソナ)、シャドウ(抑圧された欲望など)を投影し、その北野に勝手に夢まで見させている(C)。北野はその夢の中でもまたうたた寝したりして夢を見る(D)。しかし、あくまで夢の主体はビートたけしであり、たけしの夢なので、北野の夢といっても、それは所詮たけしの意識が反映されたものに他ならない。たけしの脳がその日にあった出来事を整理する睡眠プロセスの中で、実際の出来事がどんどんデフォルメされていくのである。よって、映画の冒頭20分ならびに最後の5分以外の、1時間30分の間に、作品は次第にシュールさを深め、どんどん現実からかけ離れていくのだ。繰り返すがしかし、その現実離れしていく元ネタはすべて、冒頭の20分の間に「たけし」が現実に経験した事柄である。
説明の仕様がないので、映画の中で起きる出来事をパズルのピースのようにブロック分けしてみた。まず、冒頭から20分目あたりのたけしの寝落ちから、ラスト5分前のたけしが殺されかけている悪夢からの目覚めまでが、ブックエンドとして描かれている。すべてはその間、夢の中で展開する。
寝落ち直前に交わされた以下の会話の断片から、「北野」という人物像に息が吹き込まれる。繰り返すが、すべては「たけし」の一方的なイメージ、という仮説である。その仮説の下では、本当の「北野」はコンビニでアルバイトさえもしていないかも知れないし、結婚して幸せな家庭があるやも知れない。
以後、それぞれ一番左の緑色のフレーム(A)は、冒頭20分間に起きた出来事を時系列で表す。そこから派生して、夢の中で出来事がデフォルメされていく。ピンクは(B)たけしが寝落ちして見る夢、つまり一つ目のレイヤーである。青(C)は、その中で北野が見る夢、つまり二つ目のレイヤーである。黄色は(D)北野の夢の中の夢、つまり三つ目のレイヤーである。あくまでもたけしの夢であるから、(B)を経由せず、(A)から(C)へ、(A)から(D)へ波及することもあれば、(B)から(D)へ飛ぶこともあり得る。しかし原則として、すべては現実のたけしが経験した(A)から派生する。(何故か画像の左寄せができないので、見づらいと思われるが悪しからず)
ここから岸本加世子の登場である。北野監督の女性観というか、原罪意識がちらりと見えるようなシーンである。監督は「だから、『TAKESHIS’』撮ったあと、後ろめたい女に全部電話したから(笑い)。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)と話しているくらいなので、その長い芸能生活の中で多くの女性を泣かせてきたのかも知れない。
本作の原案であった「フラクタル」はタクシー運転手の話だったという。以下は付き人の大杉漣が「タクシーの運転手は気楽でいいですね。好きな時に眠れていいなぁ」と呟く場面である。たけしは「運転がうまければやるの」とからかう。
運転手の武重は大杉蓮にどやされてばかりで頼りない限りであり、以下ではそのイメージがたけしの心に引っかかっていたと見受ける。
追っかけファンに関しても、たけしは「可哀想なことをしてしまった」と若干悔いていたので、夢の中では北野にちゃんとプレゼントを受け取らせている。
以下、(A)でたけしに言われた通り、ゲイのメイクさんがサラリーマンのエリート姿でデートに誘いに現れる(B)。北野は花束を受け取るが、そこから白昼夢に突入する。銀行強盗をし、沖縄で銃撃戦までしてきた(C)はずなのに、ふっと我に帰ると、花束を抱えたままコンビニで佇んでいる。ここで(B)に立ち戻る。
愛人の「大人しくしてるから」という言葉で、大人しくない夜の姿を連想し、たけしの夢の中で展開していく。
なぜ一人二役なのかと不思議に思っている観客も多いだろう。以下、愛人京野ことみの一言がすべての元凶である。たけしの前で他の男を「かっこいい」と褒めたことは、無意識下に(嫉妬や悲哀として)たけしの心に引っかかっていて、たけしの夢の中でことみはアバズレとして登場し、チンピラの寺島と付き合っていることになっている。
お尻を蹴る動作も、たけしは気に入らなかったのかも知れない。自分だったらピストルで撃ってしまうくらい腹立たしい行為、と捉えたのかも知れない。
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この作品の冒頭の20分意外の事柄で、ネタとなっているサブジェクトは、ビートたけし/北野武の様々なライフ・イベントである。これらは実際の出来事であり、よって映画の中のビートたけしの意識の中にも確実にある事柄である。もちろん夢なので、デフォルメされることで、それらに対する見事なオマージュになっている。気づかなかった部分もあるだろうから、また探しながら観てみたい。
最後に。この作品の中で私の目に止まったのは、ナポリタンを食べている監督のお箸の持ち方が綺麗なことである。また、終盤にさしかかるところで、芋虫のタップダンスの足が微妙にずれているところが、味わいがありツボである。黒澤明監督なら、何回も撮影し直しただろうと思われるシーンだ。さらに、銃撃戦の火花が星座に変わるのもロマンティックである。音楽も心地よい。監督にしか知り得ないこの作品の正しい解読方法をぜひご教示願いたい。監督はこの映画を排泄物のよう、と自虐したり、自分でも理解不能だなどとコメントしているが、それは実は諦めと照れ隠しなのではないかと私は密かに思っている。
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