「エロス+虐殺」について

「エロス+虐殺」(1970)は、かなり面倒くさい映画である。性格も関係もこじらせまくった登場人物たち、3時間半にも及ぶ尺の長さ、観念的かつ哲学的な台詞回し、露光オーバーの強烈な映像美、ATGの最盛期を誇るような実験的な演出、本当に何から何まで面倒くさい。しかし同時に、こんなに高品質に磨き上げられた完成度の高い映画は、日本ではもう二度と作られないだろう、と誰をもうならせるパワーがある。一柳慧によって前衛的に加工されたクラシカルな音楽と、「エイプリルフール」によるサイケデリック・ロックも、この作品の値打ちを底上げしている。観ておいて損はない作品である。

これは吉田喜重監督によって、大正時代に実在したアナキストの大杉栄と、その愛人であり、婦人解放運動のアクティビストであった伊藤野枝のスキャンダラスな愛と最期を、史実に忠実に描かれたセミフィクションである。二部構成になっており、前半は「甘粕事件」(憲兵による主人公らの虐殺)に至るまでを描き、短いインターバルを挟んで、後半は「葉山日蔭の茶屋事件」(痴情のもつれによる刃傷沙汰)に至るまでの過程を描いている。冒頭において、伊藤野枝のバックグラウンドや、辻潤との生活、平賀哀鳥(平塚らいてう)や大杉栄との関係性などについて、説明的な台詞で明らかにされるが、あまりに事情が込み入っているため、あらかじめ史実を把握して観ないことには、ただの面倒くさい映画である。

この大正時代のセミフィクションと並行するように、現代(1969年当時)の若い男女の実態に迫るエピソードが度々挟まれ、二重のストーリーラインが交互に描かれる構図となっている。大正時代を生きた二十歳の伊藤野枝と、現代を生きる二十歳の束帯永子の、二人の生き様や環境の対比は非常に面白いのだが、大正時代の部分は普通のドラマとして表現されているのに対し、現代劇の部分だけが何故か、ATGの真骨頂である前衛芸術と観念論がフル回転で展開していくので、観ているだけでかなりのエネルギーを消耗する。実際、現代劇を織り込んだ意味がわからない、大正時代の愛憎劇のみで良かったのでは、という批判的な声が多く上がっているようだが、やはり、大正時代の部分のみでは、何の変哲もない映画になってしまって、もったいないような気がしてしまうのである。

まず冒頭から、観る者の気持ちを挫くような、大いに観念的で面倒くさい文章が表示される(下記)。

「春三月縊り残され花に舞う と吟じた大杉栄と乱調の美の生涯を生きた伊藤野枝の叛逆とエロトロジーについての若きわれわれ・私それともあなたのアンビバランスな加担に至る頽廃の歓びのあるトーキング」

と、まぁ読むのも面倒くさい文章である。しかし、タイトルバックに流れる一柳慧の音楽が、鳥肌が立つほど素晴らしく、ぐいぐい引き込まれてしまうので、もうその悪文の意味を読み解くしか仕方ないのである。私の独断と偏見で翻訳を試みたが、これが精一杯にこねた屁理屈である(下記)。

「『春、三月。幸い獄中にいた為、大逆事件の検挙を免れて、絞首刑にされる事もなかった自分だが、出獄し、幸徳秋水ら我が同志たちの刑死を知り、私の心は砕け散り、風に舞う桜の花びらとともに、吹かれ消えゆく』という哀悼の歌を詠んだ大杉栄と、
 時代の「新しい女」として、従来の隷属的な女性像に挑み、美しく破天荒な人生を送った伊藤野枝、
そんな二人の革命と性愛の追求について、
現代に生きる全ての人々には、
相反感情を与えつつも理解と共感を呼ぶ、
破綻していく自堕落な悦楽を描いた物語り」

現代劇の部分の音楽を提供した「エイプリルフール」とは、後にYMOなどでも活躍した細野晴臣氏も所属していた、当時人気のプログレ・ロックバンドである。雰囲気たっぷりなブルースのようなジャズのような、サイケデリックな音楽をオファーしている。しかし、何より素晴らしいのは一柳慧によるテーマ曲である。バイオリン2挺、ピアノ、チェロの四重奏による憂いのあるクラシカルな楽曲の上に、打楽器の鈍い金属製の音、きつく張りすぎた弦を爪引くような音が響くのだが、そのリズムを外した不協和音のような音は、耳障りと心地よさの間に丁度良いゆらぎを生み出していて、癖になる。タイトルバックで喜重監督の名前が出るあたりで、クラシカルな楽曲のエンディングに数拍遅れて、張りつめた弦の「ラシドレミソ#ラ」が、楽曲といきなり調和するのである。その絶妙のタイミングには、聴くたびに鳥肌が立ってしまう。こういった映画音楽も、日本ではもう二度と作られないかも知れない。ちなみに、この一柳慧氏はオノ・ヨーコの最初の結婚相手である。

さて、アナキストもしくは無政府主義者というと、完全な自由を目指し、人間を統制する政府や権威を拒絶し、故に国家転覆を目論むテロリストといった、不穏な輩のイメージである。私有財産を無くし、資本家による「支配」と無産階級の「被支配」という体系を解体し、つまりは貧富の格差を無くすことを理想とする点においては、その政治思想は社会主義と似て非なるものか。現に北欧は社会主義国家として機能しているし、無政府状態の下にすべてを共有するコミューンも過去には世界にいくつか存在した訳で、決して奇想天外で非現実的な思想ではない。むしろ、国家権力に盲目的に従属するだけの大衆を主体とする時代の大きなうねりの中で、こういった批判の声をあげる、つまり独自の思想を持った人々が日本にいたことは特筆すべき点である。

ナショナリズムに沸き、戦争に傾いていく政府を批判し、非戦論および反戦論を掲げた彼らは、後の太平洋戦争を阻止できたかも知れなかった、唯一の歯止め的存在であっただろう。しかし、政府の思想弾圧および言論封殺に加え、大逆事件や甘粕事件などのように、特高警察や憲兵隊によって、邪魔者は早い段階で抹殺、根絶されてしまった

しかし皮肉なことに、彼らの理想は、敗戦によってある程度叶えられてしまうのである。戦勝国の持ち込んだ民主主義に基づき、新しい憲法が作られ、女性に選挙権が与えられ、財閥が解体させられ、農地改革により私有財産(土地)が富める者から貧しい者たちへ分配され、儲けた者から税金を多く取って貧しい者たちへ分配されるようになった。そんな現代社会で安穏と生きる私たちには、明治時代、大正時代のアナキストや社会主義者たちの、生死をかけるほどの情熱を想像することは難しい。そんな彼らの一面を、本作は垣間見せてくれる。

本作で登場するのは実在した人物たちだが、公開時にまだ存命であった方々の名前は一部変更されている平塚らいてうは「平賀哀鳥」、荒畑寒村は「荒谷来村」、神近市子は「正岡逸子」となっているが、すでに鬼籍に入っていた大杉栄、伊藤野枝、辻潤、堀保子、堺利彦は本名のまま登場する。

大正時代の前半部分については、脚本が意外と史実に忠実に書かれていて驚かされる。当事者たちによる暴露本をはじめ、新聞記事や著名な友人たちのメモなど、資料が多いのが一因だろう。冒頭で、大杉栄が伊藤野枝の手紙の返事を書かなかった件、伊藤野枝とキスをしたことを大杉が愛人の神近市子にわざわざ伝える件、伊藤野枝の夫である辻潤が野枝の従姉妹(千代)と浮気をする件、そのことを知った野枝が烈火の如く怒る件、大杉の自由恋愛主義を認めない荒畑寒村と決別してしまう件、野枝が一旦は日蔭茶屋を去るも「鍵を失くした」などと言って戻ってきてしまう件、事件の夜の大杉は風邪で熱っぽかった件、大杉が刺された後も卒倒するまで神近を追い回す件、などどこかで読んだことのあるエピソードばかりである。

現代と大正時代が交錯するフィールドの場面で、ラグビー選手らと着流しのアナキストたちが、大杉栄の遺骨を取り合いしているが、これも大杉栄遺骨奪取事件という実話にインスパイアされたものだろう。甘粕事件発覚後、アナキストの仲間たちが、大杉の死を悼む通夜の場を設けたところ、甘粕大尉を支持する右翼団体の者たちがまぎれ込み、哀悼の場を邪魔するために、お焼香を装って大杉の遺骨を盗み出してしまった、というハプニングである。

また、野枝が大杉と別れると散々豪語しておきながら、大杉が数人の刺客たちに襲われているシーンが、現代の高速道路のような空間で描かれたあと、あっさり身を引くことを撤回してしまう展開となっている。これは、野枝の夢であり、孤立無援で戦う大杉のイメージではないだろうか。こんな場面を見てしまっては、大杉を切り捨てることは出来なくなってしまい、結局野枝は辻のもとから大杉へ走った、と世間に揶揄されるようになってしまうのである。

大杉が回想する牢獄のシーンは、男子寮のような空間で、優雅に思想討議をしているようにしか見えないのだが、これは実際に「赤旗事件」で投獄されていた大杉、堺利彦、荒畑寒村の獄中での様子を描いたものだと思われる。大杉の妻の保子が、頻繁に本などを差し入れしていたことも史実であり、堺がいち早く保子の訪問に気づくのも、何かの記録で読んだことがある。

甘粕事件」については、大杉、野枝、大杉の甥の橘宗一(二人の子供だと間違えられて拉致された)の三名が殺される場面が、ドラマとして再現されるのではなく、舞台演出のように観念的に表現されている。一柳慧のテーマ曲をバックに、現代劇の部分に登場する若い男性が、内田魯庵著「最後の大杉」の一節を朗読するのである。その一節とは、大杉と野枝の死を、二人の長女魔子の目を通して綴られた箇所である。(内田魯庵の「最後の大杉」も青空文庫にて閲覧可能)

葉山日蔭の茶屋事件」については、まず正岡逸子(神近市子)が大杉の首元を刺す、史実に沿ったバージョン。その後、大杉が短刀を手にして自ら腹を刺すバージョン。そしてさらに、伊藤野枝が大杉の首に短刀を突き刺し、殺してしまうバージョンの、3つのバリエーションで描かれる。これは芥川的「藪の中」効果を狙ったもの、と言うよりは、三人の関係はそれほど煩雑化し煮詰まっていたため、いつ後者の2つのバージョンが起こってもおかしくなかった、という趣旨としても取れるのではないか。つまり全員が同罪であるということか。

荒畑寒村が大杉の自由恋愛主義に反発するのは、寒村自身が痛い目に遭っているからではないか、と私は考える。寒村らが赤旗事件で二年ほど獄中生活を送っているうちに、寒村の妻、管野スガは寒村を裏切り、幸徳秋水と密通してしまうのである。皮肉なことに、管野スガが考案した「明治天皇暗殺計画」のせいで、大逆事件は起こり、幸徳秋水は死刑になってしまったのである。出獄後、寒村は女郎上がりの女性を妻に娶るが、二人は大変仲睦まじく、大杉の一夫多妻制を正当化するフリーラブ論には反発しかなかったのだろう。

葉山日蔭の茶屋事件については、当事者たちの告白的なエッセイも発表されており、それぞれの立場や言い分が明らかにされているが、諸悪の根源はやはり大杉栄ではないか、と私は思っている。大杉は何よりも個人の自由を主張し、一夫一婦制のような家族システムの抑圧を否定し、自由恋愛主義をかざして実践したが、日蔭の茶屋事件は、彼の理論が机上の空論であったこと、そのフリーラブの限界と破綻を公然と証明してしまったのである。

大杉は野枝に強く惹かれていく一方、キャリアウーマンである神近市子の財力に頼り、自分と正妻(保子)の生活費をもらっていたにもかかわらず、最後には神近をただの金ヅルのようにぞんざいに扱っている。大杉は恋愛に関しては、ダダイストの辻潤にも負けないダメ男ぶりなのだ。刺されても文句は言えない状況である。

いずれの登場人物たちも魅力的で、それぞれ興味を惹かれる要素があるが、私は中でも辻潤が群を抜いて面白いと思っている。この人はダダイストとして知られているが、仕事は何をやっているか良くわからない、いわゆる思想家であり、食うためだけの文筆家である。ダダイズムとは、「根底に虚無があり、規制の秩序や常識を否定したり破壊したりする思想」なのだそうだが、そんなダダイストである辻潤の、やる気のなさと根暗ダメ人間ぶりが突き抜けていて、逆に新鮮なのである。以下は青空文庫で拝読したものの抜粋である。

「僕の生活はまことに浮遊で、自分では生まれてからまだなに一つ社会のためにも人類のためにも尽したことがない位にバイ菌でもある(略)たまには僕のような厄介な人間一匹位にムダ飯を食わしておいたとて、天下国家のさして害にはなるまい。」(ふもれすく)
「自分はなによりもまず無精者だ。面倒くさがりやである。常に「無為無作」を夢みている。(浮浪漫語)
生きていくことの面倒くさいことは今に始まったことではない。 (略)もし自分に『理想』というようなものがあればそれは『無理想』であり、人間が『動物』の自覚を持ってもっと無邪気に、屁理屈をいわず相互に自由に跳ねまわる世界を望むこと位のことだ。」(のつどる・ぬうどる)
  「が、聴くところによると、乞食にも色々な集団があって、繩張を争うようなことがあるそうだ。 こうなると、無人島へでも一人で移住するより仕方がなくなるかも知れない。そして無人島で「無為無作」を続けることになると、その当然の結果として、餓死してしまうだろう。」(浮浪漫語)

 そして、辻の最期は、本当に餓死なのであった。餓死するほど、何もしたくない人なのである。こんな無気力男の辻潤に、伊藤野枝のようなアッパーな熱量に満ちた肉食女子が手に負えるはずもない。ろくに働きもせず、野枝の収入で生活していながら、ダウナーでネガティブな文章ばかり書いていては、野枝が出て行ってしまっても仕方ないように思えてくる。しかし元を正せば、野枝が辻に惚れ込んで押しかけてきたのである。ぼんやりとしていた辻は、野枝という台風の目のような女の人生に、不可抗力的に巻き込まれてしまった、一被害者であるようにも見えてくる。辻は妻の出奔を下記のように表現しているが、辻の文章には、一貫して見栄も外聞も虚勢もなく、どこまでも謙虚で根暗である。それは逆に潔くて格好いいのかも知れない。

「野枝さんは至極有名になって、僕は一向ふるわない生活をして、碌々と暮らしていた。(略)野枝さんはメキメキと成長してきた。僕とわかれるべき雰囲気が充分形造られていたのだ。そこへ大杉君が現われてきた。一代の風雲児が現われてきた。とてもたまったものではない。(略)加うるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になってしまった。酒の味を次第に覚えた。野枝さんの従妹に惚れたりした。」(ふもれすく)

田舎から出てきたばかりの野枝は、洗練された辻の「マイ・フェア・レディ」となったが、いつしか辻を卒業し、巣立って行ってしまったのであった。そして、今度は現在の自分にふさわしい男、大杉と出会うのである。よくある話である。しかし、子供を棄てて別の男のもとへ走る行為は、現代においても、薄情で非道という醜聞のイメージが付きまとうのだから、当時、心のままに行動することは、よほどの勇気を要したことだろう。

私がようやく一人前の人間として彼に相対しはじめた時、二人がまるで違った人間だという事がはっきりしてきたのです。(略)私は子供が少しずつ育ってくるにつれて、彼にはとうてい頼れないと思ったのでした。(略)しかし子供を持った三十を越した男が、今もまだ、自分が何をしていいか分らないといって手をこまねいているのを見ると情なくもなりましたが(略)」(成長が生んだ私の恋愛破綻)

 このような当事者たちによる赤裸々な告白的エッセイは、青空文庫にて閲覧可能である。辻潤の「ふもれすく」、大杉栄の「自叙伝」、伊藤野枝の「成長が生んだ私の恋愛破綻」、「別居について」、神近市子の「豚に投げた真珠」、「引かれものの唄」など、これこそ「藪の中」といったそれぞれの主張と見解を知ることが出来て面白い。大杉の正妻、堀保子の手記も発表されたことがあるらしいが、海外にいる私にとしては、その入手には断念せざるを得なかった。

また、辻潤が「ふもれすく」の中で下記のように語るほど、当事者以外の多数の作家たちにより小説家されている。

「僕はこれまで度々小説のモデルになったりダシに使われたりしているが、未だ一回たりともモデル料にありついたことがない程不しあわせな人間である。野枝さんのことや、だが僕のことやそんな風のことが知りたい人は、僕のこんなつまらぬ話など読むよりも立派な芸術品になっているそれらの創作を読まれた方が遙かに興味がある。生田春月君の『相寄る魂』、宮崎資夫の『仮想者の恋』、野上弥生女史の『或る女』、大杉君の『死灰の中より』、谷崎潤一郎の『鮫人』――その他まだ色々とある。」(ふもれすく)

 また、脚本に当事者たちの使った「言葉」がちりばめられている。冒頭、桜並木を大杉栄と伊藤野枝が歩きながら話すシーンで、「かくて窮鳥を懐に入れた辻君は恋妻としてこれを育てたが・・・(略)」という大杉の台詞があるが、実際、辻潤はエッセイ「ふもれすく」の中で「野枝さんが窮鳥でないまでも・・・(略)」と、野枝を「窮鳥」と表現している箇所がある。

また、日蔭茶屋にて「殺すしかありません」と迫る神近市子に対し、大杉は「そうか、ならいっそ馴染み甲斐に一思いにやってもらいたいな」と返答するが、これも大杉の著書「自叙伝」では、「私、あなたを殺すことに決心しましたから。」と言われ、「うん、それもよかろう。が、殺すんなら、今までのお馴染甲斐に、せめては一息で死ぬように殺してくれ。」と返している。本作では、「お馴染み甲斐」という聞きなれない言葉をあえて使っていて、芸が細かい。

また、現代劇の部分では、束帯永が子私服刑事に「五千円って言おうとしたの、そしたら吃っちゃって。吃るとカ行の発音が出来なくなるのよ。ガギグゲゴ。だから三百円って言っちゃった」と語るが、これは大杉が、後藤新平内務大臣に借金を願い出た際、本当は「五百円」と言いたかったのに、カ行の発音が苦手なので、思わず「三百円」と言ってしまった、という逸話に基づいたシーンである。

私服刑事が束帯永子に対して言う「苦悩する人間、彼らはすでに牢獄にいる」という台詞は、辻潤のエッセイ「にひる・にる・あどみらり」の中の一文、「人間は牢獄のようなものだ。」にインスパイアされたものではないだろうか。他にもこの刑事が饒舌に語る哲学は、まるで辻潤のダダイズムそのものである。

ちなみに冒頭の文章に出てくる「乱調の美」とは、大江栄のエッセイ「生の拡充」の中に登場する「美は乱調にあり、階調に偽りあり」という一文を取ったもので、カオスの中に美を見出し、つまらない予定調和に不信を抱くものである。伊藤野枝の半生を描いた瀬戸内寂聴の著書のタイトルも、この大杉栄の言葉に由来するものである。

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