「愛のコリーダ」について

日本とフランスの合作映画である大島渚監督「愛のコリーダ」(1976)は、「芸術か、わいせつか」という表現の自由をめぐって大騒動を起こした昭和の問題作である。この当時から欧米ではポルノが解禁されているが、日本では、ずいぶん緩和されたとは言え、現在でも厳しい検閲・規制が入る。1975年、フランス人プロデューサーからポルノ映画撮影のオファーを受けた大島監督は、40年前の日本において、すでにこの難題に果敢にも挑んでいたのである。初めて観た時は、日本人がこんなに美しく過激で哀しい映像芸術を作っていた、という事実に衝撃と深い感銘を受けた。

撮影は日本で行うが、フィルムを現像すれば国内のわいせつ法に抵触するため、未現像のフィルム(税関でもチェックを受けない)をフランスへ送り、フランスで編集するという荒技で完成させた。フランスではオリジナル無修正の映像が公開されて大ヒットしたが、日本ではフィルムをズタズタに切り修正をかけた、原型をとどめない形で公開された。また、本作のシナリオとプロモーション用の写真を掲載した書籍が発行されると、わいせつ文書図画にあたるとして、監督と出版社社長が検挙・起訴された(監督側は後に無罪判決を勝ち取っている)。

法廷において「わいせつ」の基準は、「普通人の間に存する良識、すなわち社会通念に従うべき」ものであり、それは社会の変化(国民の「馴れ」と「受容」)に応じて変わるものとし、2000年に入ってからは、フランスからオリジナルのフィルムを取り寄せ、最低限の修正を施したノーカット・バージョンが発表された(「愛のコリーダ 2000」)。私はフランス版しか見た事がないので、日本で出回っているのが一体どんなものなのか、それで大島監督の意図した作品として成立しているのか、大変疑わしく思っている。ちなみにアメリカ版では子供の箇所のみ修正が入っているという。

本作は、確かにハードポルノと言われる表現方法ではあるが、内容は魂を揺さぶる壮大なラブストーリーである。しかし映画は観る人によって全く印象が違うので、私のように何とも思わない人もいれば、わいせつだと思い気分を害する人もいるのだろう。フランス資本でポルノを撮るオファーを受け、阿部定事件を題材にするというのは、大島監督ならではの天晴れな発想である。阿部定の訊問調書を読んだことがあるのだが、本作の脚本はその調書を原作としているらしく、状況や台詞なども驚くほど忠実に再現されている。小説より奇なる現実を語る阿部定の口述は、井原西鶴の「好色一代女」や近松茂左衛門の「道行」、谷崎潤一郎や菊池寛のドロドロのメロドラマを軽く凌ぐほど、純文学の領域に達するような見事な語り口であり、この調書自体が読み応えのある一文学作品である。

作家の坂口安吾は、阿部定との対談を記録しているが、坂口は「お定さんは極めて当り前な、つまり、一番女らしい女のように思われます。東京の下町育ち、花柳界や妾などもしていましたから、一般の主婦とは違っていますが、しかしまぁ、最も平凡な女という感じを受けました。」と彼女の印象を語っている。当時の新聞には、逮捕時の満面の笑顔の写真が掲載されており、蒲柳の質といった雰囲気(竹久夢二の絵のイメージ)の、うりざね顔の美人である。服役中はファンレターやプロポーズの手紙が一万通ほど寄せられたほどの人気ぶりを博している。

しかし、この調書を読む限り、到底普通の女性ではない。水商売が悪いというのではなく、すぐに飽きたりトラブルを起こしては別の場所へと流されていくパターンが、その性格の危うさを浮き彫りにしている。裕福な家庭に末っ子として産まれ育つが、15、6歳で不良少女となり、家のお金を持ち出しては浅草で不良たちと遊び、奢ってやり、小遣いまでやる豪遊ぶり。17歳の頃、男との噂が絶えないため、業を煮やした父親に娼妓として売りに出されてしまう。この父親も狂ってるとしか言いようがないが、徹底的に男の相手をさせれば懲りるだろうと考えていたらしい。そこから彼女の流転の人生が始まる。17歳から32歳までの15年間の職業履歴は下記の通りである。

・東京で芸妓「春新美濃」(18歳)
・神奈川で芸妓「川茂中」
・富山で芸妓「平安楼」
・長野で芸妓「三河屋」
・大阪で娼妓「御園楼」(22歳)
・大阪で娼妓「徳栄楼」
・大阪で娼妓「都楼」
・兵庫で娼妓「大正楼」
・神戸でカフェの女給
・神戸で高等淫売
・大阪で高等淫売(28歳)
・東京で高等淫売
・男性Aの妾となるが、一年後にAが病気になり離別(30歳)
・横浜で高等淫売
・男性Bの妾となるが、すぐ離別
・名古屋で女中「小料理屋・寿」
・男性Cの妾となる(Cは名古屋市議会議員、中京商業高校の校長先生)
・名古屋で女中「小料理屋・移住」
・東京で高等淫売
・東京で女中「割烹・吉田屋」(32歳)

その間も店を逃げ出したり、連れ戻されたり、昔の男や客と関係を持ったり、金づるにされて他人の一家を養ったり、警察につかまったり、波瀾万丈、海千山千である。ちなみに警察沙汰の履歴は、下記の通りである。

・16歳:女中奉公中、無断でお嬢さんの着物や指輪を身に付けて活動見物に出た
・21歳:朋輩芸妓の三味線のバチを5、6個と煙管を盗って質入れした
・26歳:娼妓奉公中、客の金百円を盗った
・28歳:花札・麻雀賭博
・32歳:殺人、死体遺棄、死体損壊

いくら美人で所作や言動が普通であっても、これだけのバックグラウンドがあれば十分おかしいだろう。サダは仮死状態で産まれ、4歳頃まで言葉もまともに話せなかったらしいので、発達障害か何か問題を抱えていたのではないか、と疑いたくなるのだが、調書を読んでいると記憶力も抜群で、理路整然かつ建設的に話を進めていることから、障害などでは決してない印象を受ける。

調書の中でも自分のことを「鉄火肌」と表現しているが、性格は癇癪持ちで直情型であったのは確かなようだ。一時の感情の起伏に振り回され、自分の哲学を持たず、周りに流されるように生きている。将来設計のような計画性や想像力に欠けていて、思考は浅はかで軽率としか言いようがない。フィンチャー監督「ゴーン・ガール」(2014)に登場する、全てが計算尽くのエイミーとは対極に存在するようなタイプである。どちらのタイプの女に捕まっても、男には地獄かも知れないが。

サダは3人目のパトロンの男性Cと出会って以来はカタギになろうと努力をしており、吉田屋の女中になったのはそんな矢先のことであった。訊問調書には「先生(C)は会うと、いつも私の将来の事を心配して、真面目になれと言うような話ばかりしてくれました」と載っている。

映画では、冒頭の部分でそれを雄弁に描いている。冒頭の部分は調書にはないので、大島監督による、サダという女像をエスタブリッシュするための説明的導入部だろうと思われる。気性の荒い、一筋縄ではいかない、しかし母親のような包容力もあり、少女のような危うさもある、まさに魔性の女である。色白で華奢な体つき、耳たぶにはサソリの入れ墨、表情によって美人にも不美人にも見え、女も男も惹きつけるフェロモンダダ漏れの女である。しかし、女中として働きながらも、周りに「女郎上がり」と揶揄されると、手に持っていたお銚子を相手に投げつけ、「殺してやる!」と、そばにあった包丁を掴んでは斬りかかるという、激情型の危険な女としての一幕が描かれている。おかみさんや他の女中らに止められ、キャットファイトを繰り広げていたところに、主人である石田吉藏が、ほろ酔い加減に、狐のお面を被って帰ってくる。すると、女たちの興奮が一気に和らぎ、吉藏はサダの顔をまじまじと眺め、手を取り「可愛い手をしてるじゃないかよ。刃物握るより、他のもの握った方がいいんじゃないのか」と色気たっぷりに言うのである。この場面は、ラストシーンへの伏線とも言える、急降下で破滅へ向かっていく二人の第一歩であった。それが2月のことである。

吉藏がサダにちょっかいを出し、4月の中旬に二人は初めて関係を持っている。しかし4月19日には他の女中に見られ、おかみさんにバレてしまう。「外でゆっくり相談しよう」と吉藏に言われ、二人で家を出たのが4月23日。ちょっと相談したらすぐ帰る心つもりだったというが、いざ一緒になると二人は離れられなくなってしまう。それから5月7日まで二週間、布団は敷きっぱなしでご飯もろくに食べずお酒ばかり呑んで過ごす始末。その後、おかみさんのご機嫌取りと金の工面のために、吉藏が一度自宅へ戻るが、二人は離れていられず、5月11日に再び落ち合うことになる。再び布団は敷きっぱなしでお酒ばかり呑む自堕落な生活が始まる。しかし、5月17日の夜9時頃、吉藏が金の工面のためにもう一度自宅に戻ると言い始め、サダは猛反対する。そして、そのわずか5時間後(午前2時)には、吉藏を殺してしまうのである。僅か四ヶ月ほどの情事。

阿部定事件のあらましは誰もが知るところであり、ストーリー展開自体はシンプルである。浮気な始まりだったが、全てにおいてピッタリと相性がよく、一つに融合してしまいたいほど、二人がお互いにのめり込んでいく勢い、どんどん増していく想いの濃度と狂気が、ものすごい迫力で描かれている。それと比例するように、画面には殺気が満ちてくる。包丁や鋏などの刃物がいつもどこかでチラつき、これこそ「可愛さ余って憎さ百倍」の心理だろうかと恐くなるほど、サダの愛情表現が残酷になっていき、吉藏はそれを限りなく受け入れるようになっていく。あっという間に燃えて燃え尽きてしまうのである。

藤竜也と松田英子の迫真の演技は、直情径行のサダが、吉藏を家に帰したくないがために、永遠に自分のものだけにするために殺してしまう結末を、本当にそれ以外の方法はなかったのではないかと納得してしまうくらい、自然な流れとして表現している。藤竜也の匂い立つような色気と粋な佇まい、松田英子のモダンな肢体とミステリアスさ、日本の美を映し出す衣装やセット、特に着物の色彩はレトロというよりポップで、襦袢の半衿の模様や、帯の柄も粋で、威厳ある佇まいの日本家屋に正月飾りの花餅、狐のお面、笹の枝に提灯、梅の花の枝、鯉のぼりなど、そこかしこで用いられる小道具も、目の保養になっている。

阿部定事件が起こったのは、1936年5月のことである。その年の2月には、本能寺の変に次ぐ日本史上最大の謀反とも言える「二・二六事件」があり、高橋是清や鈴木貫太郎などの政府要人たちが次々と襲撃され、東京一体に戒厳令がしかれた。しかしこのクーデターの失敗を機に、日本は加速度的にファシズム化へと傾倒していく。1931年に満州事変、1932年に満州国建国、1933年に国際連盟を脱退し、日本は国際社会の中で孤立を深めていく一方、中国では武力を用いて熱河省を満州国に併合したり、華北五省の自治政府設立(傀儡政治)を模索する。1936年には日中戦争が勃発する。日本中の国民が不穏な空気に導かれるように、集団的に間違った方向へ突き進んでいくことになる。

映画の終盤あたりで、吉藏が理髪店からの帰り道、兵隊の列とすれ違うシーンがある。軍服姿の凛々しく若い兵士たちと、着流し姿で放蕩する吉藏、また遠く知らない土地へ赴任していく兵士たち、密室に篭る吉藏とサダとの世界観のコントラストも鮮やかで、反対の方向へ向かえども、国のために死んでいく兵士たちも、個の女のために死んでいく男も、両者ともがすでに死の世界の人間のようにも映るのである。

阿部定訊問調書にて、サダは吉藏についてこのように語っている(抜粋)。

あの人が好きで堪らず、自分で独占したいと思い詰め、未だあの人は私と夫婦ではないから、あの人が生きていれば他の女に触れことになるであろう。殺してしまえば、他の女は指一本触れなくなりますから、殺してしまったのです。(中略)

天秤に掛ければ四分六分で、私の方が余計好いておりました。(中略)

石田の何が良いと言われでも、ここと言って答えることは出来ませんが、石田は様子といい、態度といい、寝間といい、心持ちといい、貶すところ一つもなく、あれほどの色男に会った事はありません。歳は42とはとても思えず、せいぜい27、8に見え、皮膚の色は、二十代の男のようでありました。気持ちはごく単純で、ちょっとした事でも嬉しがり、感情家ですぐ態度に表れ、赤ん坊の様に無邪気で、私が何をしても喜んでおり、甘えておりました。(中略)

4月23日から5月7日まで二週間も待合を泊まり歩いたのですから、普通なれば嫌気が来るはずですが、どうしても石田と一緒にいると益々良くなるばかりで、一旦別れて8日から10日まで一人いた時の嫉妬と焦燥の気持ち、今考えてもあれほど辛かった事はありません。(中略)

11日の晩のことは、焦がれている男に二百年ぶりにあった様な嬉しさで、到底お話しできないくらいで、泣いたり、ふざけたり、夜通し寝ませんでした。(中略)

男に惚れたあまり、今度の私がやった程度の事を思う女は、世間にあるに違いないのですが、ただしないだけのものと思います。(中略)

私は石田を殺してしまうとスッカリ安心して、肩の荷がおりた様な感じがして、気分が朗らかになりました。(中略)

(局所を切り取って逃亡したのは)一番可愛い大事なものだから。そのままにしておけば、湯棺でもする時、おかみさんが触れるに違いないから。石田と一緒のような気がして寂しくないと思ったからです。(中略)

石田は完全に自分のものだと言う意味を、定、吉二人きりと書いたのです。石田の体に私をつけて行ってもらいたかったために、自分の名を彫り付けたのです。(中略)」

坂口安吾との対談で、刑期を終えたサダはこう語った。

「今でも、あんなことしなきゃよかったかしらん、と思うけども、やっぱし、そうでしょうね。ちっとも後悔してないんです。死んだ人に悪いけどもネ。」

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