「ソナチネ」について

そもそも、私は芸人「ビートたけし」にはジャイアンのイメージを勝手に抱いており、アグレッシブな芸風も偉そうなイジメっ子を連想させ、それは大の苦手であった。といっても、「コマネチ」や「たけし軍団」や「フライデー襲撃事件」くらいしか知らなかったのだが、なんとなく低俗で下品なギャグ・センスの、傍若無人な昭和の芸人という偏見があり、いくら評価されようも彼の映画には全く興味がなかった。

しかし何かのきっかけで「菊次郎の夏」(1999)と「HANA-BI」(1998)を観ることになった私は、本人とのイメージとのギャップが大き過ぎて、十年に一度というくらいの大ショックを受けた。コペルニクス的転回のような、認識の逆転である。久石譲のエモーショナルすぎるサントラのせいも多少はあると思うが、もっと早くに観ておけば良かった、と激しく後悔するほどに心を動かされた。

まず菊次郎の夏」を見て、監督自身がまったく菊次郎のように、あのヤクザな風貌とは裏腹に、心は永遠の子供のように可愛らしくてシャイで、寂しがり屋で繊細で、研ぎ澄まされた感性を持つ人なのだろう、としみじみ感じ入ってしまったのである。さらに「HANA-BI」で初めて北野武のアートの才能を知って一層衝撃を受け、あっという間に全作を網羅してしまい、大ファンとなってしまった。これは一種のいわゆる「ギャップ萌え」なのかも知れない。

ソナチネ」(1993)は北野作品の中で私が一番好きな作品である。当時の日本人には理解、支持されなかったようで、公開されてからわずか二週間で打ち切りになっている。じわじわと海外で評価されファンを獲得していき、今では日本映画界における圧倒的な金字塔とされている。その脚本(特に台詞や伏線の回収)も演出(色彩)も、配役も沖縄という舞台も、もう文句がない。安部公房の原作を映画化した勅使河原宏監督の「砂の女」(1964)と並ぶくらい、奇跡的な完成度だと思う。多くの人がこの映画にエロス(生)とタナトス(死)を持ち出すが、実際その二つの本能はヤクザの社会で、そして主人公の心の中で特に色濃く、絶えず拮抗しているのではないか。そんな背理の中で生きる男たちにとっては、いずれは「エロス=タナトス」のような境地に至ってしまうのかも知れない。ヤクザな男たちが子供のように無邪気に遊ぶシーンがあり、それが本当に可愛らしくて和むのだが、しかしそれだけではない。同時にすぐ隣に死があるのが切なくて、この映画は北野武監督の心象風景というか、北野武監督自身なのかな、と思う。子供のように純粋無垢でしなやかな生への本能と、それを暴力的に一瞬で奪ってしまう死への衝動を、否定できない「大人」ならではのパラドクスである。

ちなみに「ソナチネ」とは、クラシック音楽の様式のひとつで、ピアノの初級教材として頻用されるような、短く簡単で演奏しやすい曲のことである。映画のストーリーも「親分に裏切られたヤクザが、報復後に自殺するというもの」とごく短く簡単に説明できる。それは特に目新しいテーマでもなく、何かの国際映画シンポジウムで、評論家の蓮實重彦氏に「鈴木清順の『東京流れ者』の悪意のパロディーと思われても仕方ない」などと言われている。続いてフランス人のMCに「鈴木清順は大島渚の探求方法を大衆的に行った監督だが、その鈴木清順との類似性についてよく指摘されることについて、どう思うか」という質問をされ、北野武は「(清順作品は)一本も見たことがない」と困ったように答えている。全く憎めない人である。

エロスとタナトスはフロイトが提唱した「人間の無意識の衝動」であり、逆説的かつ表裏一体の本能だとされている。「ソナチネ」の中では「赤」のエロス、「青」のタナトスとして、視覚的なコントラストとして迫ってくる。全編に散りばめられた赤と青の色を拾いながら観ると面白い。どこまで監督が意図したものか定かではないが、いかに生と死が背中合わせに存在し、どちらも似たエネルギーで競り合っているのが見えてくる

モチーフの反転はそれだけに留まらない。都会の裏社会の人間たちの物語が、地上の楽園のような沖縄の海辺で繰り広げられ、東京湾の黒いどぶのように澱んだ海を見下ろしていた血も涙もないヤクザが、沖縄の碧い宝石のように透き通った海で子供のように無邪気に遊ぶ。灰色のコンクリートの街の緊迫感から、青い海と白い砂浜を望む古民家での惚けた日々。そして、肩を並べて存在する「生」と「死」。比較的に生の色が強かった前半から、後半では死の色が次第に支配的になっていく。

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タイトルバックは、禍々しい赤色の空を背景に、槍に突き刺さった毒々しい青色の魚のショット。(沖縄の青い魚といえばイラブチャーかと思ったが、ナポレオン・フィッシュというサンゴ礁の海に生息する魚だそう。)

ある夜、組長と幹部役の矢島健一に呼び出された武は、沖縄で中松組(味方)と阿南組(敵)の間に抗争が勃発したと聞かされる。手打ちになるだろうから、中松を助けてこいと命じられ、気乗りしない武だったが、親の命令とあらば行かざるを得ない。

武は子分らと総勢13名で沖縄に降り立つのだが、用意されていた空き事務所に到着早々、窓に銃弾を打ち込まれる。しかし、会食で顔を合わせた中松組の組長には、阿南組とはよくある揉め事で、東京から武たちが来るほどの大げさなことではない、と聞かされる。必要ないのに、無理やり武たちを沖縄入りさせた親分と矢島に、俄かに猜疑心が芽生える武だった。

しかし翌日には、潜伏していた空き事務所が爆破され、同行してきた殆どの子分らは殺されてしまう。その上、襲撃を免れた子分らと、飲みに行った先のスナックの店内(赤い絨毯、赤いソファ)では、客を装った阿南組の輩に襲撃され、銃撃戦になる。

しばらく身を潜める必要があると判断した武と、生き残りの二人の子分、大杉漣と寺島進は、中松組からの案内役の渡辺哲(幹部)と勝村政信と共に、ひたすら車を走らせる。街灯もない真っ暗な闇に、赤いテールランプのみが浮き上がる。

夜が明け、日が昇りきった頃、青い空碧い海、武と部下たちは白い砂浜と乾いた土の道路しかない、南の果ての空き家にたどり着くのだった。

悪夢から一転、楽園に迷い込んだようなひと時である。ジャンケンをして、頭の上に乗せた空き缶をピストルで撃つ遊びをする寺島と勝村。そのピストルを横取りし、銃弾を一発残して、ロシアンルーレットを始める武。しかし暇を持て余す大人たちは、毒気が抜けて、どんどん童心に帰っていく。子供のように紙相撲で闘ったり、浜辺で相撲を取ったり、少年ジャンプを読み、赤いフリスビーを投げて遊ぶのである。

ある晩、武はピストルで頭を撃ち抜かれる夢を見て、夜中に目を覚ます。外に出ると、男が女(国舞亜矢)に乱暴しようとしていた。素通りするつもりだった武に、男が因縁をつけてくる。ナイフを取り出した男に、武は躊躇なく発砲して殺してしまう。この一件で武を慕うようになった亜矢は、以後毎日遊びに来るようになる。目の覚めるような青い車に乗って。

夜、青い満月の下、武は子分たちを呼び出し、作っておいた落とし穴に彼らがまんまと落ちるのを見て、無邪気に笑う。別の夜には、寺島と勝村が真っ赤な貫頭衣に編笠を被らされ、渡辺哲に無理やり琉球舞踊の手ほどきを受けている。また、別の夜には青い闇の中でロケット花火を打ち合って遊んでいる。青白い煙がたなびく中、闇に散る赤い火花のシーンは世にも美しいカットである。そして青い月は日を追うごとに、ますます不気味に青さを増していく

ある日、武と亜矢は釣りに行くのだが、北野映画としてはきわめて珍しい、手の内をみせるような説明的(同時に謎かけのよう)な会話のシーンがある。

亜「平気で人殺せるってことは、平気で死ねるってことだよね。強いよね、私、強い人大好きなんだ」
武「強かったら拳銃なんか持ってねぇよ」
亜「でも平気で撃っちゃうじゃん」
武「怖いから撃っちゃうんだよ」
亜「でも死ぬの恐くないでしょ」
武「あんまり死ぬの恐がると、死にたくなっちゃうんだよ」

突然、スコールのような雨が降ってきて、ガジュマルの林に駆け込む二人。亜矢は濡れたシャツを脱いで上半身裸になるのだが(多分誘惑している)、あっけらかんとして健康的すぎるヌードである上、「見せちゃうなんてすごいな」なんて言って驚くだけの武。雨に濡れた裸体を映しているのに、湿った色気が徹底的に排除されたシーンとなっている。(暴力沙汰や銃撃戦のシーンでも、ヤクザたちは棒立ちで表情一つ変えない。一貫して、恐怖や動揺などの感情の乱れを一切排除した、ドライな描き方である。

ある日、武の代理として大杉漣が松中組の組長と会うのだが、組長曰く、矢島が沖縄に現れ、阿南組との手打ちの条件に中松組は解散、武たちは破門だと言っているという。大杉が立ち去った後、そこに釣り人に扮した殺し屋が現れ、組長とその子分らを銃殺する。同行していた組長の女(妊娠中)は無事であった。ここにも紙一重の生と死が、お互いを際立たせるように描かれている。

釣り人(殺し屋)が砂浜をゆったりと歩いていく。途中、摘み取られたハイビスカスの花が、こんもりと積まれている。釣り人が足を止め、それを両手ですくい上げ空に投げると、赤い花びら青い空を覆い尽くすように舞う。(この芸術的に美しいシーンもこの映画のハイライトの一つだろう。)赤い花びらの像は赤いフリスビーに変わり、寺島らがそれをクレー射撃のようにピストルで撃ったり、野球のように棒切れで打ったりと、呑気な遊びに興じている風景へとシフトする。そこに釣り人が青いクーラーボックスを下げてゆっくり忍び寄る。異変に気づいた勝村は全速力で逃げおおすが、寺島は頭を撃ち抜かれる。偶然ボートの影に座っていた武と亜矢は見つからず助かるのだった。

武、大杉漣と渡辺哲は矢島の宿泊先を突き止めようと、ホテルの部屋(青い絨毯)を訪ねてまわるが、エレベーターの中で矢島と殺し屋(釣り人)にばったり会うのだ。一触即発の緊迫感も束の間、銃撃戦が始まり大杉漣も渡辺哲も殺されてしまう。武は殺し屋を射殺し、矢島に真実を吐かせる。親分は阿南組と一仕事やりたがっていて、中松組が邪魔になった。武の破門は、羽振りの良い武のシマが欲しくなったから、ということだった。武は、銃弾を受けて動けない矢島を車に残し、車ごと爆破してしまうのだった。

親分が阿南組と手を結ぶために沖縄入りすることを知り、復讐の機会を得る武。ホテルの前に停めた青い車の車内では、武と一緒に行くと言う勝村に、武は「カタギになるんだろ?」と聞き入れない。勝村がホテルの電気系統の制御室に忍び込み、停電を引き起こすと、武はマシンガンを片手にホテルへ乗り込んで行く。青い夕闇の中で赤い火花が散るのを振り返りながら、勝村は走り去る。

青い車が戻って来る。しかし青いワンピースを着た亜矢が待っている坂の下からは死角になって見えない。黄色いトラックが亜矢を通り越し、やがて青い車とすれ違う。その青い車の中で、武は自分の頭をピストルで撃ち抜き、赤い血がガラスに飛び散るのだった。

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中盤の大人による子供の遊びが可愛くて切なくて印象に残る。遊びの一つ一つがとても独創的でノスタルジックで愛おしい。久石譲の三線を使った曲もマッチしている。ちなみに人間の「遊び」の本質は、フランスの人類学者のロジェ・カイヨワによって四つに分類されているという。北野武監督が意図したかは別として、沖縄のシーンでは四つのカテゴリすべてを網羅しており、遊びの限りを尽くしたとことになる。

競争: 運動、格闘技など → 相撲
偶然: ジャンケン、くじ、賭博など → 缶撃ち、ロシアンルーレット
模倣: 演劇、モノマネ、人形 → 琉球舞踊、トラのフィギュア
眩暈: メリーゴーランド、ブランコなど → ブーメラン

なお、カイヨワの著書「戦争論」によると、「遊び」と「戦争」は、魅惑と恐怖の源であるところの「聖なるもの」として、共通する性質があるという。「遊び」も「戦争」も、平凡な日常の規範、秩序、制御などからの一時的な逸脱、中断、解放をもたらすものであり、様々な制度、常識、法規に縛られた調和の中での圧迫、抑圧、退屈、マンネリに対する「ガス抜き」の役割があるとする、という趣旨だったと思う。暴力団の抗争と無邪気な遊びを、対照的に並置して描かれる構造は、緻密に計算された訳ではないと思われるが、人間行動学や哲学の観点からも興味深く、やっぱり北野監督天才なの?!ってなってしまう。

また、無駄なセリフが一つもないのでは、と思うほど、どんな小さな伏線もすべて丁寧に回収されている。

例えば、沖縄に同行する武の子分らと、幹部の矢島健一の子分らが顔合わせをする際、武の組の古参の組員が「こんなガキどもと一緒に行けるか。小学生の遠足じゃねぇんだぞ」と怒鳴り、矢島の子分の一人に刺されてしまう。しかし沖縄に到着した一行は、中古のマイクロバスに乗せられ、アイスを食べたり、ラムネを飲んだりして、その光景がまさしく(体の大きな)小学生の遠足のようなのである。さらに、刺された古参の組員は大した傷じゃなかったらしく、刺した組員本人と隣同士に座っているのだ。

また、武の子分である寺島進と中松組の勝村政信は、序盤からお互い張り合うようなことを言い合い、ソリが合わないように描かれるが、海辺の家に着いた途端、無邪気な子供のように一緒に遊ぶのである。その対照的なメリハリが小気味いい。それからはずっと二人は仲良しバディである。

また、渡辺哲が風呂場で体を洗う場面で、子分ら二人がバケツに真水をためて運んでくる(空き家なので、おそらく水道が止められている)のだが、水がなくなってしまう。文句を言うと「雨が降ったら洗え」とすげなく言い返されるのである。その後、本当に大雨が降ってきて、風呂に入れなかった二人が喜び勇んで雨の中でシャンプーするのだが、途中で雨が止んでしまうという、北野監督らしい諧謔性に富んだシーンもある。

冒頭、喫茶店で働く元子分の津田寛治を見かけた武が、「組やめて田舎帰ったんじゃなかったのか、ボーイならボーイらしい格好しろ」とチンピラのような服装の津田を嗜めていた。しかし後日、津田は矢島に拾われ、結局沖縄へと同行することになってしまう。その上、爆破された事務所に居合わせ、殺されてしまうのである。この一件もあり、ラストで武は勝村に「カタギになるんだろ」と念を押すのである。

最後に、なぜ、武は自殺したか。東京ですでに「もうヤクザやめたくなったなぁ、なんかもう疲れたよ」と言っていた武である。守るべき自分の組の子分らも皆死んでしまった。親分や阿南組の幹部たちも皆殺しにした今、逃げる道など皆無である。たとえ、亜矢があの家で待っていても、そんな男に未来はなく、むしろ関わらないほうが良い。「あんまり死ぬのを恐がると、死にたくなっちゃうんだよ」と言ったように、死にたくなったから自殺した。それだけのことだと思う。亜矢が待っていることは分かっていたと思う。だから、どこでも死ねるのに、ちょうど亜矢から見えなくて、亜矢に一番近い距離で死ぬことにしたのではないか。

追記:出生順位による性格や傾向を解明する研究や統計学は色々あるようだが、北野武監督の多才で多彩な創造力と、三男一女の末っ子であるというのは相当関係あるのではないかと思っている。例えば、黒澤明監督は八人兄弟の末っ子、新藤兼人監督は四人兄弟の末っ子、夏目漱石も八人兄弟の末っ子、エジソンも七人兄弟の末っ子、松本人志も三人兄弟の末っ子、というのは単なる偶然だろうか。兄弟が多ければ多いほど、末っ子が想像力豊かで自由でクリエイティブであるという仮説は果たして成立するだろうか。そういう私自身は長女なので、ちょっとつまらない。

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