「CASSHERN」(映画版)について

何度もリメイクされている新造人間シリーズ「キャシャーン」だが、そのオリジナル作品とは、1973年〜1974年に放送されていた30分枠の子供向けの戦隊モノである(全35話)。その後、1993年にOVA(全4話)、2004年に実写、2008年〜2009年にアニメ(全24話)と漫画(全1巻)でリメイクされている。不思議なことに海外でもすべて入手可能で、しかも英語吹き替えまで存在する。紀里谷和明監督は、子供の時に「キャシャーン」のファンだったということだが、大胆な設定の変更や翻案はあるものの、批評されているよりはずっと原作に寄り添っている印象を受け、監督の愛を感じるような気がするのだが、どうだろう。

宇多田ヒカルのPVを手がけて一躍有名になった紀里谷監督。私が一番好きなのは「Final Distance」の映像で、アンティーク写真のような、天使・サーカス・キャバレー・宮廷道化師のような者たちが織りなす世界観が退廃的で美しい。アニメーションとCGと王宮ドレス姿の宇多田ヒカルが融合する「Passion」や、色褪せたフィルムに映る外国の人や景色の「Be my Last」も素敵である。対照的に、「Sakura ドロップス」、「Traveling」、「Keep Trying」などはハッとするような原色使いのポップさ、キッチュなクレイ・アート、サイケデリックな不気味さに満ち、横尾忠則・ダフトパンク・寺山修司・サルバドール・ダリをブレンドしたような独特の映像美である。個人的な感想だが、紀里谷監督の「映像作家」としての才能は日本でも指折りと言えると思う。

さて、賛否両論である「CASSHERN」だが、私はこの作品が好きだ。しかし、映画として素晴らしいというより、やはり映像美が素晴らしいのだと思う。とにかく豪華なキャストに恵まれている。伊勢谷友介、麻生久美子、樋口可南子、ミッチー、要潤など、登場人物がとても麗しくカメラに収められていて、黒髪に碧い眼も妖しく美しく儚げで、視覚的には圧倒的なアイ・キャンディーである。戦地で伊勢谷の上官を演じた寺島進も最高のキレっぷりである。また、虐殺される民間人の中に、GLAYのヒサシとタクロウがいるそうな。映画のストラクチャーにこだわらず、CGと融合した映像美と、舞台演劇のような雰囲気だけで押し切ってしまうのも悪くないし、こういう映画があってもいいと思うが、あまり観客を軽んじてはいけない。特に映画好きの人たちには、どんなにデフォルメされていようと、意図的な瓦解か、技術的な破綻かは、見破られてしまうのではないだろうか。この作品が酷評される原因はそこにあるような気がする。

観客としては、感覚的に引っかかる部分(破綻)が多ければ多いほど、ストーリーには入り込めなくなるからである。

例えば、同じ培養液で再生された唐沢たちとは違い、なぜ伊勢谷だけがボディスーツを着なければならない(皮膚が破裂しそうなほど筋肉が異様に発達した)状態だったのかが不明である点。また、盛りだくさんのテーマやメッセージを、わざわざ全て台詞で直接的に伝えてしまう点。そして希望がことごとく砕かれることで、テーマ・メッセージ性を一層強調させるくどさ。新造人間が人類を滅ぼそうとする動機付けが弱すぎる点(政府・軍幹部に報復するくらいで良さそう)。大雪の中で目指した城にはどんな意味があったのか。たった4人しか生き残らなかった新造人間がどのようにロボット兵士たちを大量生産できたのか。CGの無機質さのせいか、シーンが変わっても、どの場所・空間も同じように見えてわかりにくい。

また、50年戦争が終結した後も、政府の「民族優位主義」政策のせいでテロなどの反乱がおさまらない、という前提だが、民族優位主義もテロもどちらも十分に描かれておらず、ラスト近くで西島秀俊の台詞の中に、第七管区に対する差別的な発言があったり、及川光博が下層階級に生まれた者の宿命について言及するシーンもあるが、それは個人レベルの問題といった印象にしか過ぎず、国家レベルの弾圧とは考え難い。大滝秀治の関心事も新造細胞の開発で延命することだけで、自分たちの民族がどうこういうシーンは全くない。民族間の優位性の問題による民族同士の戦い、人間 vs 新造人間の戦い、将軍 vs その息子の戦い、などが入り乱れるわけだが、本当にわかりづらい。

それでも映像美のおかげで、私には二時間半ほどの上映時間がまったく苦でなかったし、伊勢谷友介の白いボディスーツに鉄マスクはかっこいいし、視覚的には魅せられたままであった。そしてラストで新造人間となる前の生活(もしくは平和な世界があったなら送れたであろう幸せな生活)が映されるくだりは、やはり涙を誘う。そのまま宇多田ヒカルの楽曲に入るので、ほとんど号泣であった。

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ストーリーは、50年戦争と呼ばれた世界大戦の後、大アジア連邦共和国はヨーロッパ連合に勝利し、ユーラシア大陸のほぼ全域を手中におさめていた。しかし「民族優位主義」を掲げた政府による弾圧・差別に対し、テロが勃発。中でも第七管区の戦いは苛烈を極め、軍部は兵力を大幅に拡大させ、多くの若者たちが戦地に向かおうとしていた。

街には、国家最高司令官である将軍(大滝 秀治)の顔写真が、レーニンやチェゲバラのごとく、そこかしこに掲げられている。空に浮かぶ船は古代ギリシャ時代のガレー船のように船体からいくつもの櫂が伸びている。プロペラで飛ぶ球型のドローンのような物体、広告文字のホログラム。掲示板には入隊を募るメッセージが流れ続ける。

寺尾聡は「新造細胞」を研究する博士である。放射能や産業廃棄物、化学戦争の爪痕としての病原菌など、公害病に苦しむ国民を救うため、iPS細胞のような、マルチパーパスの細胞を理論的に編み出した。実用化に向けて、軍がサポートすることとなる。病を患う将軍、大滝秀治が延命のために、この細胞の開発に期待していたからである。また、寺尾聡も病気の妻(樋口可南子)の治療のために、どうしてもこの新造細胞を実用化させなければならなかった。

研究が行き詰まり、様々な体のパーツが培養液槽に浮いているのを寺尾が眺めていると、その培養液槽に稲妻が落ちる。すると、パーツが結合・再生し、新造人間となって次々と生まれ出てきてしまうのだ。軍部は、得体の知れない新造人間たちを皆殺しにしようと武力で立ち向かう。どうにか逃げ切った新造人間たち(唐沢寿明、要潤、佐田真由美、宮迫博之)は、自分たちを滅ぼそうとした人類に逆襲しようと考える。

そこに寺尾聡の息子、伊勢谷友介が戦死したという報告が入る。絶望した寺尾聡は、伊勢谷の遺体を新造人間の培養液槽に浸けて、再生させることを思いつくのである。そうして生まれ変わった伊勢谷は、人類を攻撃する新造人間を相手に戦うこととなる。

甦った伊勢谷は婚約者、麻生久美子と再会するが、麻生は公害病で倒れてしまう。たまたま出会った老医師、三橋達也に応急処置をしてもらい、その場所が第七管区であることに気づく。伊勢谷は兵士として従事していた頃、第七管区で住民を殺したことがあったのだ。それを悔いる伊勢谷は、攻撃してくる新造人間たちと戦う宿命を受け入れ、自ら「キャシャーン」と名乗る。老医師に、昔この国には「キャシャーン」と呼ばれる守り神がいて平和が保たれていた、という逸話を聞いたからである。

新造人間の要潤と伊勢谷が戦っている間に、麻生久美子がさらわれてしまう。以前から、第七管区の人間たちは拉致され、どこかへ輸送されて続けているのである。その輸送機の中で麻生は寺尾聡と再会する。麻生を助けるために追ってきた伊勢谷、姿を表した唐沢、寺尾、麻生が向き合う。「生きるために戦うことが前提にあるのが、今の人間世界だ。私はその世界を壊し、生きるためだけの国を作る、楽園だ。人間が人間である限り、人間が幸せに暮らせる世界は生まれない」と唐沢は言う。

そんな中、軍部でも将軍の息子(西島秀俊)がクーデターを起こし、さらに将軍がそれを覆すべく兵力を投じ、新造人間のロボット軍、西島のロボット兵、将軍の軍が入り乱れて殺し合いを始めるのである。唐沢が言う通り、「人間が人間である限り、人間が幸せに暮らせる世界は生まれない」という概念を体現するシーンである。

ラスト、国家機密を把握している西島が種明かしをする。新造人間は、もともと本当にただの人間だったのである。人間の始まりである太古の人種「オリジナル・ヒューマン」が、ユーラシア第七管区の者たちである、という調査結果が出たため、以前の掃討作戦で皆殺しにされた第七管区の人間の死体を、新造細胞研究の実験体として使うこととなった。唐沢も、要潤も佐田真由美も宮迫も、第七管区の人間であり、反乱軍として殺され、その死体を実験のためにバラバラにされてしまったのである。彼らが時々見ていたフラッシュバックは、人間として生きていた頃の記憶のかけらだったのである。また、伊勢谷が第七管区で殺してしまった住民は、皮肉なことに唐沢寿明の妻であった。

寺尾聡は病に冒されて死んでしまった妻を、新造人間培養液槽に入れて再生しようと考える。それを正当化するため、寺尾は麻生久美子を拳銃で撃ち、「どうせすぐに生き返る」と言うのである。唐沢と重なるように倒れた麻生は、唐沢の再生能力によって一時的に生き返り、唐沢の怨念を実行するように、伊勢谷のボディスーツを破いて共に爆発する。伊勢谷は麻生と地上のすべての命の集合体となり、希望のエネルギーとなって宇宙の彼方へ消えるのである。そのエネルギーはまたどこかの星に稲妻として落ちる。あの日、どこかの希望の集合体が稲妻として偶然、新造細胞の培養液槽へ落ちたように。

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私はこの若い伊勢谷友介より、近年の彼の方がはるかに魅力的であると思っている。大人の色気と線の細い儚さがあって、周りが大事にしてあげなくてはいけないような雰囲気がある。美しすぎて、壊れそうなイメージの日本人俳優は伊勢谷友介と安藤政信くらいである。

ちなみに私は「GOEMON」と「ラスト・ナイツ」は最後まで観ることすら出来なかった。紀里谷監督の得意とする近現代的な美術力や演出力は、サイバーパンク以外の分野とは相入れないのではないか、と思うのである。織田信長の暗殺は秀吉の陰謀だったという「GOEMON」の設定はとても興味深いが、私も日本の歴史は戦国時代が一番好きなので少々思い入れがあり、あまりにも史実とかけ離れたビジュアルと人物描写で迫られると、いくら頭の中で適応・調整しようとも、困惑・混乱の方が上まってしまう。登場人物たちの洋装に関しては、伴天連の影響として百歩譲ったとしても、冒頭で踊りを舞う花魁たちのミニ丈の着物や黒革のサイハイ・ブーツは、さすがに飛躍しすぎである。また電気も通っていないのに、江戸の街がチャイナタウンのごとく灯り照らされ明るすぎる。さらに、例えば茶々は、実父浅井長政、義父柴田勝家、実母お市の方を、秀吉のせいで三名とも自害させられている。秀吉にそんな深い恨みを持つ茶々が、秀吉には純粋に恩を感じ心から慕っているような描写にも納得がいかない。秀頼を授かるまでの二人の関係のプロセスはもっと複雑で錯雑で煩雑で、それは想像を絶する葛藤に満ちていたのでは無いか。時代劇だと思わなないで鑑賞するべきなのだろうが、子供の頃から刷り込まれてきた戦国時代のイメージはどうしようもない。

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