1989年に公開された映画「その男、凶暴につき」は、北野武監督の記念すべき処女作である。既に、関係者らから様々な裏話が披露されているが、やはり特筆すべきは、本作は本来、巨匠深作欣二監督が撮るはずの映画であった、ということだろう。しかし北野監督は当時、フライデー事件の謹慎から芸能界に戻ったばかりで、テレビの仕事が山積しており、深作監督が希望したような、まとまった撮影日程(数ヶ月の拘束)を確保することは極めて難しく、加えて、深作監督はリハーサルが多いことで有名であるにも関わらず、北野監督は本番一発勝負の芸人として「リハーサルはしない」と主張した。折り合いがつかず、監督か主演のビートたけしか、どちらかが降りるしかない状況に陥ってしまったのである。結果的に深作監督が降板し、急遽、北野武監督が誕生する運びとなったのである。(その後、北野監督は役者として深作監督の「バトルロワイヤル」(2000)に出演しているので、二人にわだかまりは無さそうである。)
撮影にあたり、北野監督はもともと存在した脚本を大幅に改稿したというが、そのことで脚本を執筆した野沢尚氏には大不興を買ってしまった。野沢氏は、本作が駄作に仕上がることすら願っていたそうだが、完成した作品は思いのほか上出来で、野沢氏は「やっぱりタケシは天才だよ・・・」と評したという。しかし、本作はまぐれ当たりの傑作であり「そのうち馬脚を現すに違いない」とのコメントも残している。一方で、故淀川長治氏や黒澤明監督には絶賛され、興行的にも成功をおさめている。
初監督作品だからと、稚拙さや荒削りさを危惧するのは、まったくもって杞憂である。ブラックユーモア、ペーソス、皮肉、愛、暴力、優しさ、ドラマ、悲劇、サスペンスなど、内容が盛りだくさんで、片時も退屈させないのである。何より、当時41歳の北野武の格好良いこと極まりない。北野監督の面構えというか面魂(つらだましい)というか、全身から漂うローンウルフ的な毒気と、触ったら弾かれそうな圧(オーラ)がすさまじい。トップを走っていた現役の頃の北野武をこうやって見ると、やはり只者ではないと納得させられる。
北野監督扮する刑事は、タイトル通り凶暴で狂犬のような男である。常に殺気立っていて、狂気を孕んでいる。彼は果たして正義感に突き動かされているのか、それともサイコパスなのか、すごいドSでただ暴力を愛しているのか、その行動原理が明らかにされないため、不気味さが増幅する。冗談か本気か分からない受け答えや、熱血なのか冷血なのか分からない限度を超えた暴力など、謎は深まるばかりで観客を混乱させるのだ。「どうして刑事になったんですか」と聞かれて、ヘラヘラと「友人の紹介」などと答えているがそれも到底本当のようには聞こえない。
また、冒頭で浮浪者が少年たちに襲われて殺される事件が発生するのだが、武は主犯格の少年の家まで赴くと、その少年に殴る蹴るの暴力をふるって自首させる。観客は、この大胆不敵な行動にも一種の正義を見出そうとするのだが、その直後、実は武は現行犯逮捕できる状態にいたことが明らかになり、混乱する。つまり、浮浪者が殺される前に介入できたかも知れないのに、一人じゃどうにもならないからと、殺人をただ傍観していたことになる。この刑事の倫理観が理解できず、観客は困惑したままストーリーを追うことになる。
しかし、この刑事には精神を病んだ妹がいて、彼女を大事にしているという優しい一面もある。妹が入院していた精神病院に迎えに行き、祭りに付き添ったり、海を眺めたり、陽が傾くまで付き合ってやっていて、またその顔が優しいのである。また、妹の家で男と遭遇した時には「名前は?どっから来た?どこ勤めてんだ?いつから付き合ってんだ?どこで知り合ったんだ?妹もらってくれるんだろうな。結納しなくちゃな。なんだてめぇ逃げんのか」と脅しまくり、空恐ろしいのだがコミカルなシーンでもある。
この「他人に対する暴力性」と「身内に対する優しさ」の介在は、第7作目の「HANA-BI」(1997)との共通するテーマであり、「この男、凶暴につき」と「HANA-BI」の構造が、実はとても似ていることに気づかされる。同じように行き過ぎた暴力性を持った刑事が、病んでいる妻・妹には別人のような優しさを見せる点、最も近しい刑事の先輩・同期が撃たれ・殺され、犯人に復讐を実行する点、刑事を辞めさせられる点、妻・妹を自分の手で殺してしまう点、最後は自分も死んでしまう点、など。
本作で武演じる刑事は、もともと度の過ぎた暴力のせいで管内の署をたらい回しにされていた鼻摘まみ者である。それでも一線を超えずにやって来られたのは、刑事であることが彼の歯止めであったためかも知れない。警察手帳を取り上げられた瞬間から、彼は暴力性を解放させて破滅に突き進んでいく。拳銃を手に入れるとその足で黒幕(岸部一徳)に会いに行き、有無も言わせず引き金を引いている。警察署長の言葉通り、警察は組織を守るために汚職刑事(平泉成)の死を自殺として片付けることは明白であり、自分の手を下すしかもう方法がないのだ。一瞬も逡巡することなく発砲する唐突さが素晴らしい。
そのまま白竜のアジトへ向かい、逃げも隠れもしない真っ向からの撃ち合いの末、白竜を殺す。その場に妹が現れ、彼女が拉致され麻薬中毒にさせられたことを知る武。すると妹にも弾丸を撃ち込むのであった。それは精神を病んでいる上に、麻薬中毒者となってしまった哀れな妹を楽にさせるためだったのか。あるいは、汚れてしまった妹の存在を否定したかったのか。もしくは、自分が逮捕された後は彼女の面倒を見る人もおらず、彼女の行く末を果無んだのか。
この映画は、映像美というよりは、遊び心のある映像が多かったように思う。冒頭とラストの太鼓橋の向こう側から頭から現れる人物、警察署の駐車場を歩く武の頭が半分画面から切れている構図、坂の下からヘッドライトから現れる白竜の車、シャブ中の男が金属バットを振り上げるのと同時に、運転手の刑事が腰の拳銃に手をかけるのを、腰の高さで撮ったスローモーションの映像など。
淀川長治氏が指摘していたように、この映画は歩くシーンがやたらと多い。走るシーンもやたらと長い。でも、観客は引き込まれ、武と一緒に歩いて、走っているような錯覚に陥る。歩道橋で白竜とすれ違い、だいぶ歩いたところでハッと動物的勘が閃き突然踵を返すシーンも、やはりあれだけ歩いて、時間の経過と歩いた距離とが描写されているからこそ面白いのだと思う。また、武が延々と走っているだけで魅せるシーンである。とてもフォームは良いとは言えないが、ものすごい瞬発力が運動神経の良さを示していて、その動物的な優秀さに惚れ惚れとしてしまうのである。
逃走したシャブ中の男の追跡の果てに、武が車で轢いてしまい、部下(芦川誠)に「轢くことないじゃないですか。下手したら死んでますよ・・・」と嗜められて呆然としていると、次の瞬間、轢いたはずの男が金属バットで助手席側の窓を割るのだが、間一髪で武が気づき、素早く芦川の頭を引き寄せ伏せさせるシーンがある。その後男はバットでフロントガラスを割ろうとするのだが、その間も何気に武が芦川の頭を抱えて守っているのである。私はこのシーンが大好きでドキドキしながら何度もリプレイしてしまう。バックしてまた轢いてしまうのも痛快だし、署長(佐野史郎)に「犯人を逮捕するのに車で二回も轢くことあるかね」と叱られるシーンも、佐野も武もシリアスに演じているのだが、なんだか可笑しいのである。
また、ラストで岸部一徳の右腕だった男(吉澤健)が武の頭を撃ち抜くシーンで、闇に浮かぶ硝煙が白い円を描いてゆらめくカット。そして、吉澤が倉庫の電気を点けると建物の全貌が明らかになり、またすぐに電気を落とすと、扉から漏れ入る太陽の光がまるでスポットライトのように武を照らし出し、その直線上の彼方には白竜と妹の死体が横たわっている。ゾクゾクするほどカッコいいカットである。
また、先輩である平泉との関係性の描きかたも素晴らしい。署内ではずっと無表情で殺気を放ってさえいる武が、廊下で平泉を見つけて初めて笑顔になる。また、麻薬横流しの疑惑が上がった後、平泉に誘い出されてバーガーショップで話し合うシーンは、完全に会話がシャットアウトされていて、外から武の表情を窺えるだけである。平泉が何を話したのか、まったく説明がないので、観客は想像するしかないのだが、私はこのシーンには、なんだか男だけの世界だなぁ、という少し憧れに近い色気を感じるのだ。
白竜が演じた殺し屋のキャラクターもとても興味深い。全編を通して爬虫類のような目でまったく感情を表さないのだが、ラスト近くで岸部一徳に数発殴られた時だけ、捨てられた子犬のような悲しそうな目をする。白竜は、雇い主である岸部一徳に屈折した愛を抱いていて、自分なりに岸辺を守ろうとしていたのだろう。その思いがけない人間らしい表情には胸を打たれる。(武が麻薬の売人の一人に殺し屋の正体を吐かせると「あいつはキチガイだ。仁藤(岸辺一徳)のためなら何だってやるんだ」と述懐するシーンがある。また、武が白竜の家をガサ入れした際に裸の若い男がベッドにいたことから、白竜がゲイであることは明らか。)ちなみに裏話としては、白竜はオファー時は警察署長(佐野史郎の役)で受けていたそうだが、後々殺し屋の役に変更になり、当時俳優に転身したばかりだった白竜は、とにかく台詞が少ない役柄で喜んだという。
今や北野映画のレギュラーとなっている寺島進が端役(白竜の子分)で出ていたり、ブレーク前の遠藤憲一や佐野史郎、若き日の平泉成や岸部一徳も見られる。キャステイングした方は見る目があったのだなぁと感心する。
この映画は1989年、バブルの最盛期に公開された作品である。それでも、刑事ら公務員の世界にはあまり影響がなかったのか、北野監督が意図的に排除したのか、他の同年代の映画に見られるようなバブル感が全く漂っていない。芦川誠と武が立ち寄ったバーに、女性のバーテンダーが大勢(カウンター席の客数と同じくらい)いて好景気を匂わせるのと、ディスコでのファッション、シャガールの展覧会などが、唯一バブルの表徴かも知れない。