1996年に公開された「キッズ・リターン」は北野武監督の6作目の作品であり、1994年のバイク事故後、初の監督復帰作でもある。本作も故淀川長治氏に絶賛され、また興行的にもある程度の成功を収めている。ストーリーは単純明快で、落ちこぼれ高校生である主人公二人のライズ & フォールを描いた青春群像劇である。いつも一緒につるんでいた勉強のできない二人が、それぞれ別々の道を歩き出し、一人はヤクザの親分、もう一人はボクシングのチャンピオンを目指してのし上がっていくも、若さ故の迷走の末、手痛い挫折を経験し、そしてゼロに戻った二人は再会する。同時に、彼らの周囲の人々にもスポットライトを当て、それぞれが不器用にもがく姿や、ままならない現実を描くことで、青春時代の不安定で不確かな、ヒリヒリした感覚を存分に表現している。
この映画を観ていなくても、ラストの台詞だけは知っている人も多いのではないだろうか。エンドロールの直前に、かの有名なダイアローグが登場する。
「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな」
「バカヤロウ、まだ始まっちゃいねーよ」
おそらく北野監督はこれが言いたくて撮った映画なのではないか、と観客は想像してしまうだろう。バイク事故で再起不能などと囁かれ、世間には「もう終わった」とほとんど見限られていた北野監督のささやかなミドルフィンガー的反論であり、これからもまだ世間を驚かせてやるといった、復活に向けた静かな熱意を感じさせるからだ。ストーリーはストレートでそのままなので、今回は、この有名なラストの解釈と、モロ師岡の役柄に終始して考察してみたい。
この台詞については、観客の解釈が大きく分かれていて、本当に観る人によってそれぞれ感じ方が全く違うのだな、と再認識させられる。この台詞を北野監督の皮肉としてとらえ、「ダメなやつは何をしてもダメ」「懲りないバカ」「終わっているのは分かっているが、自嘲しているだけ」「絶望しかない自分たちの未来に気付いていない」「傷を舐め合う友達がいるだけマシ」などと、ひどく悲劇的で残酷な結末だとする人たちが意外にも多い。中卒で背中に刺青があるやつが、どうやって社会復帰するのか、と至極まともな論点をあげる意見もあり、「希望を感じるヤツは頭がお花畑」というコメントにはさすがに笑ってしまったが、不良の主人公たちがラストで死んでしまう(本当に終わってしまう)大島渚監督の「青春残酷物語」(1960)が引き合いに出されていると知って驚いてしまった。そこまで虚無的かと。
確かに金子賢の役は中卒で刺青入りのヤクザ上がりだが、安藤政信と再会した日も、真面目に職探しをする予定だった訳で、もう服装もチンピラ風ではないし、組長に気に入られ短期間でのし上がり、アニキ分のシマを貰ってしまうような、要領の良さを秘めている男である。勉強もボクシングも、自分は一番になれないと決断するのも早い。これはすぐ諦める根性のなさとも取れるが、適応能力および判断力の鋭さとも取れると思う。主君を11回も変えた戦国武将、藤堂高虎のように。殺されずに足を洗えただけでも幸運だ。
一方、安藤政信の方はちゃんと高校を卒業しているし、運動能力・動体視力・センスなどボクシングの才能に長け、モロ師岡に邪魔される前までは、面白いくらいの快進撃を見せていた。会長やコーチにも気に入られ、タイトルマッチ戦の話も上がるほど、可能性に満ちていた選手である。道を踏み外したのは、未熟だったからである。程度の差こそあれ、若者は誰でも挫折や敗北を経験し、少しずつ成熟し、だんだん大人になっていくものだ。この二人の場合は、若さだけでなく、要領の良さや特殊な才能に秀でている。そもそも勉強ができないだけで、全然「ダメなやつ」ではないのだ。未来には絶望しかないというのは考え難い。
私はこの台詞には、「二十歳そこそこの挫折で何を大げさな」と思ってしまう口なので、個人的には、二人は元いた場所から再出発するつもりであり、この会話はまさに「終わっていないこと」を確認し合う会話として消化している。
安藤が一人の場合では、そのまま拗ねて埋没してしまいそうだが、金子賢の実行力と楽観主義に引っ張られる形で、二人でまた立ち上がりそうである。特に、金子は安藤の前では兄貴風を吹かせたいプライドがあるから、いつまでも負け犬ぶりを晒すわけにいかない。つまり二人には、まだまだ復活できる可能性が秘められている。こんな希望的観測を抱く私の頭はお花畑なのかも知れないが。
そんな金子賢と安藤政信のストーリーと平行して、喫茶店の店員に恋する同級生(ヒロシ)、不良三人組、漫才師志望のコンビ、ラーメン屋で働くパシリの津田寛治のエピソードが挿しこまれる。日々練習に励み、コツコツと努力を重ねてきた漫才コンビが、初めはガラガラだった劇場を満席にするまでが描かれている。大成したように見える二人でも、これから挫折を味わうことだってあるだろう。それでもそこで終わりだとは決まっていない。また、津田寛治はアニキ分の殺人を被り、身代わりとなって自首させられるが、彼だってここで終わりではない。あっさり自分に罪を着せた腹黒い石橋凌は殺され、金子賢は破門され、つまり現在では寺島進がトップに立っている。津田の出所後も、自身の身代わりとして投獄生活を送ってくれた若い衆を、寺島が邪険にする可能性は低いと思いたい。つまり、この映画の中で終わってしまったのは、せっかく喫茶店の店員と結婚までこぎつけたのに、ブラック企業でのオーバーワークがたたり、自動車事故で命を落としたヒロシだけである。生きている限り、大どんでん返しは可能なのである、ということを北野監督自身が証明しているように。
また反対に、このラストを「希望にあふれている」「爽やか」「励まされる」「救われる」と表現するコメントも多く見かけたが、それにもまた、私は全く同意することはできないのだ。私は決して二人が「終わった」などとは思っていないが、「終わっていない = 挑戦を続ける」ということであれば、それはとても面倒臭いことでもある。
きっとこれからも色々と紆余曲折があって、たくさんのエネルギーを費やして生きて行かねばならないのだ、と考えると気が遠くなる。そうか、これを繰り返すことが人生か、となんとなく分かってしまうと、エロス(生)とタナトス(死)が拮抗し始めるというか、一度敗北を味わった人間は慎重になるし、それが成長の一つの形でもあるのだが、成功と挫折が背中合わせに存在するものだと知ってしまうと、もう無邪気に簡単に希望だなんて口に出来なくなる。
自分が何者なのか、見当も付かない十代なんて、不安で危うくて痛ましくて仕方ない時期だと私は思っている。従って私には、この作品は痛々しくて辛く、「励まし」や「救い」なんて、元々どこにもないように感じられる。40代の私には、これから色々と体験していかなければならない若者たちは気の毒でさえある。よって、このエンディングを手放しで「希望にあふれている」「爽やか」だとは全く思えないのである。
淀川長治氏は、この映画の冒頭で主人公二人が乗っている自転車が「若さ、青春、少年をよく表している。乗っているポーズ(安藤が後ろ向きでペダルを踏み、金子が荷台に座ってハンドルを操作している)もポエムになっている」と語っている。確かに、序盤で二人は自転車に乗っていて、中盤では金子が白いベンツに運転手付きで乗っている。しかし終盤で二人ともが挫折を経験し、また自転車に乗って校庭に戻ってくるという、まさにタイトル通りの「キッズ・リターン」となる。ちなみに、高校時代に授業をサボって校庭をぐるぐる回っていた頃、教室の黒板には大政奉還、王政復古の大号令(1867年)とあり、挫折後に校庭に戻ってきた時には、黒板には日清戦争後の世界情勢(1891〜)とある。少しだけ時代が前に進んでいるのだ。主人公二人は、同じ場所に以前と同じ状態で戻ってきたわけではなく、少しだけ大人になって前に進んでいるのだ、と暗示しているようでもある。自転車も、もう以前のように向かい合って乗ってはいない。安藤が前を向きペダルを踏み、ハンドルを操作している。金子は安心しきったように体を預けている(寺島進に腕を切られて片腕が使えないという説もあるようだ)。けれどこれは決して金子の立場が下がったのではなく、金子の中に、安藤に主導権を渡すだけの器量が育ったということではないか。彼らは確実に大人になっていっているのだ。
また、この映画を初めて見た時は、安藤にモロ師岡の魔手が伸びるのを止められなかったのは、ジム側の監督不行き届きではないかと思っていた。しかし今回見直してみたところ、また別の印象を持った。モロ師岡が会長を悪者に仕立てあげ、「あれで何人もボクサーが潰されたんだ。前のチャンピオンも、結局それで潰されたんだ・・・」と吐露する場面がある。しかし実際に新人を潰しているのはモロ師岡である。厳しい減量トレーニング中の選手に、まさに悪魔が囁くように酒やタバコをすすめ、嘔吐と下剤で減量するやり方を吹き込むのである。しかし、そのモロ師岡も、元々は新人王を取った強者だったことを踏まえると、もしかしたら彼も同じように悪意のある先輩にそそのかされ、潰された被害者の一人なのかも知れない、と思うのである。それを伝統のようにやり続けている。それだけ長い間水面下で周到に行われてきた犯行であるなら、ジム側が管理できないのも仕方がないのかも知れない。現に会長やコーチは、安藤とモロ師岡の付き合いに難色を示し、何度も注意を促していた。金子賢がヤクザの舎弟を連れてジムに出入りするのも、控えるようにと会長が金子本人に伝えるシーンさえあった。つまり、一概に監督不行き届きとは言えないのかも知れないが、次々とダメになっていくボクサーたちにヒアリングでもして、ジム側には原因(モロ師岡)を突き止めて欲しいものである。夢や可能性にあふれる若者たちが、あまりに可哀想だ。
「強い奴はどっちにしろ強いんだ」と、真面目に減量することを一笑にふすモロ師岡だが、実際の試合ではボロボロに負けている。それを横目で見ていながらも、安藤はモロ師岡の口車に乗せられてしまう。本能的に、自分にとってこの人は良く無いんだと感じていたとしても、若い時には自分の勘など信じ切れないものである。「君子危うきに近寄らず」なんて若い人たちには受け入れ難いだろうが、どんなに好きな友達であっても、自分を悪い方向に引き寄せていく者は、心を鬼にしてでも付き合いをやめ、自分を守らなければならない時が来る。それもまた、成長過程の一つであるのだろう。
最後に。久石譲の音楽は相変わらず主張が強く、不安を煽るようなドラマチックなリフレインで、青春のほろ苦さを押し付けてくるが、タイトルバックの自転車のスピード感と、音楽が表現する疾走感が見事にマッチしていて引き込まれる。「もののけ姫」のメロディにとても似ているのが若干気になるところであるが、私だけだろうか。