「TAKESHIS’」(2005)、「監督・ばんざい!」(2007)に続き、葛藤三部作のフィナーレを飾る「アキレスと亀」(2008)は、ペンキ屋さんだったという父親に対するトリビュートかと思うほど、目に鮮やかな色彩に彩られ、とにかく視覚的にとても楽しい作品である。水彩絵の具ではなく、ペンキのようなアクリルや油絵の、力強い原色の色使いだ。初期作品のような、独特の映像美や芸術的な演出は見られないが、監督自作のユニークな絵画が100点近く登場するので、まるで展覧会のように愉しめる映画となっている。
前二作よりは随分と分かりやすい手法で撮られてはいるが、やはり監督の生身の姿が痛々しいほど投影されている点においては同じである。
とは言え、監督自身がこの三部作を蝶の成長プロセスを引き合いに、「TAKESHIS’」はサナギ、「監督・ばんざい!」は羽化、「アキレスと亀」は翅を広げて飛んでいる状態、と語っているように、本作を、監督がスッキリと吹っ切れたコンディションで撮ったのだろうことは、下記抜粋からも窺い知ることができる。つまり監督自身の葛藤の末の着地点は、ラストで表示される「そしてアキレスは亀に追いついた」という文字からも分かるように、そのまま本作の真知寿の帰着点でもあるのだ。
「それは、前の『監督・ばんざい!』は当たる当たんないとか言ってて、(中略)・・・『映画を撮れることが最高である』っていう結論が、この『アキレスと亀』であって。(中略)・・・やりたいことをやっている人ってのが一番幸せだ、評価なんか別に関係ないっていう。この世界にいること自体が一番幸せなことだみたいな。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
「この映画で、映画監督だってことに、腹をくくったってとこあるじゃない。(中略)・・・退路を断ったみたいなとこあんじゃない?」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
ゼノンのパラドックス「アキレスと亀」は、いかにも理系の頭脳の人が喜びそうな論証である。
常識で考えて、アキレスがあっという間に亀を追い越すのは明白だ。また、「アキレスが亀に追いつく位置より前では、絶対に追い越せない」なんて「そりゃそうだろう」と、詭弁を弄しているようにしか思えない。逆に、「アキレスと亀の間には無限の通過点がある」などと言われると、文系の私なんかは思考停止に陥ってしまう。
しかし、「無限の通過点」という地点ではなく、時点で考えると少し分かるような気もする。時間幅を狭く小さく分割する、という考え方である。圧倒的なスローモーションの中で、アキレスが空中にて殆ど不動のイメージだ。
アキレスが亀に追いつくまでの時間は、無限に「小さい時間幅」に分割できる。微分積分計算するまでもなく、つまり、ずっと「6秒」にたどり着かないので、逆転できないという、いわば屁理屈である。
しかし、いくら時間が無限に分割できようと、時間そのものが増幅するわけではないため、無限に続くかと思われた(5秒と6秒の間の)時間もやはり有限であり、やがてその時点が過ぎたら、アキレスは亀を追い越すことができる(ということで正しいのだろうか)。
この作品のエンディングの、「そしてアキレスは亀に追いついた」というメッセージは、その無限に続くかと思われた有限の時間、5秒と6秒の間の本来はとても短いはずの時間が過ぎ、真知寿はついに、そのスローモーションのモラトリアムから抜け出した、つまり芸術の呪縛から解放された、と解釈出来るのである。
自分が愛する芸術を創作することと、世間の評価との間のパラドキシカルな悩みに陥って、もはや何を表現すればいいのかも分からなくなり、正気を失っていった真知寿が全てを失った時、この妻がいて、好きな絵を描いていられることこそが幸福なのだ、とやっと正気を取り戻す。つまり、ようやくその精神的なパラドクスから抜け出したということである。常識で考えればすぐ分かることだが、芸術という魔物に魅せられた人間は、このアリ地獄のような罠に引き摺り込まれてしまうのだろう。まさに、三部作を手がけていた期間の監督自身がそうであったように。
すなわち、この作品の登場人物のうち、誰がアキレスで、誰が亀かというより、常識で考えれば、あっという間にアキレスが追いつくことが明白な話なのに、哲学的あるいは数学的な論議や評価によって観念的且つ心理的な迷路から抜け出せなくなるのだが、何かの拍子に常識に立ち返った時、その話の単純さに気づく、ということではないだろうか。
北野監督はラストで夫婦を心中させようかと考えていたようだが、プロデューサーに反対され、「夢を持たせる」結末にしたということだ。しかし、これは果たしてハッピーエンディングなのだろうか。真知寿にとって芸術は依存症の一種である。狂ってまで芸術に人生を捧げてきた男には、今更違った生き方などできるはずもなく、真知寿がどのように再生するのか、戻って来てくれた妻を大事にできるのかなど、観客としては決して気持ちの晴れない、むしろ不安に満ちたエンディングである。
多くのレビューで、純粋に夢を追い続ける男の姿、献身的な妻、その夫婦愛に感動した、という感想を目にしたが、この真知寿の生き方、あるいは妻との関係は決して美化できるものではないと思う。世界中のどんな夫婦関係においても、女性に母性がある限り、また男性が永遠の少年である限り、時には妻が母親的な役割を担うことがあるのは自然の経緯である。世話焼きの女性(例えば長女タイプ)、甘えん坊の男性(たとえば末っ子タイプ)の場合は、その側面は一層濃密かも知れない。真知寿の妻には、「すべての女に母親を求める」という監督の女性像が濃厚に投影されている。映画の中で、妻が「あんたと一緒に夜描いて、昼間は働いて、私はいつ寝るの?」という場面がある。真知寿の返答はなんと「いいんだよ」という、ふざけた気構えである。いくら母親のように自分のわがままを聞き入れてくれる妻であったとしても、たとえそれが、妻が自身で選び取った生き方であったとしても、女性を無碍に粗末にあしらう描写には釈然としない。共依存のような不健全な関係か、あるいは、真知寿のモラハラ的支配によって、妻が自尊心もなくし、自己主張もできないよう洗脳・奴隷化されているようでさえある。この二人の愛は美しい、というよりむしろ、悲劇かホラーである。
自分の生活にも責任を持てない真知寿のような生活不能者は、家族を持ってはいけないというのが原則だろう。映画の終盤で命を落とす娘はその最大の犠牲者である。あきらかな機能不全家族において、娘の保護・養育より、夫の芸術を優先させる妻も同罪である。幼少期の人格形成に重要な時期に、十分な愛情をかけてもらえなかった子供は、健全な自尊心、自己愛、共感力、思いやりなど、人間的資質が未発達であり、大人になってからも苦しむのである。その通り、売春と薬物使用の末、娘は若くして亡くなってしまう。死に顔の顔拓を取ろうとする真知寿、その真知寿にコントロールされていた妻。二人とも狂気に囚われているのである。
依存症には、物質依存・プロセス依存・関係依存という三つの種類があるというが、真知寿の場合はプロセス依存に匹敵するだろう。典型的な症状は、以下の5点である。
・身体的健康を損なう → 全身大火傷
・精神的健康を損なう → 娘の遺体で顔拓、炎上する小屋でスケッチ、自殺未遂
・家族を失う → 娘は死亡、妻は離縁
・財産を失う → もともと無い。絵も焼却処分
・社会的地位を失う → もともと無い
しかし、その行為によって刺激、快感、高揚感を味わうことに依存していた訳ではないように思うのだ。子供の頃、まだ父親の事業がうまくいっていて、優しい継母や女中、父親や画商、画家に絵を褒められて、嬉しかった記憶がすべての原因ではないかと考える。父親が事業に失敗し、家族が皆死んでしまい、一人残された真知寿は親戚の家や児童施設にたらい回しにされる。甘やかされっぱなしだった子供には、突然の喪失感と不幸は簡単には受け止められなかっただろう。幸せだった頃の思い出にすがり、現実逃避の手段として、絵を書くことをやめられなったとも考えられる。絵を描くことが、悲嘆のプロセス(グリーフワーク)の一つであったかも知れず、あの頃のように、「うまく描けたね」と褒められることだけを願って描き、世間(画商の息子)に否定されればされるほど躍起になって、どんどんと認められることにのめり込んでいってしまったのではないか。それも、依存症の一種かも知れないが。
しかし、真知寿の芸術への現実逃避的な傾倒は、さらに周囲に甘やかされて増長した部分もあり、また反対に、周囲に厳しい現実を突きつけられる度、さらに芸術に逃げるはめになったとも考えられる。
大杉漣の家に預けられ、厳しく叱られても、奥さんが「助けてあげなよ。学校行かせてあげなよ。絵、描かせてあげなよ。」と仲裁に入ってくれたり、青年になっても、新聞配達をサボっている真知寿に対して、社長の六平は「絵を描くのはいいけど、配り終えてからにして。手伝うから早く。」と言ったり、美術学校に行くために退職を願い出た真知寿には「うちにいて勉強すりゃいいじゃないか」と優しい言葉をかける。妻に至っては、「私なら、彼の芸術わかると思う」と果てしなく寛容に理解を示すのである。
しかし同時に、美術学校時代に訪れたバーではママに「才能のないやつはさっさとお帰り。目が冷めない奴は一生眠ったまんまだよ」と冷たく言い放される。おでん屋でも、「才能があったって、売れる売れないは別もんだからな。人間飢えてりゃ芸術なんて関係ない。所詮まやかしだ」と突き放され、その帰り道に友達は飛び降り自殺を図ってしまう。
画商の大森南朋に何かと文句をつけられる様は、「監督・ばんざい!」で伊武雅刀がナレーション的ツッコミを入れていたのと同じパターンである。つまりは、監督自身が、自分の作品を自己批判し、ダメ出しをしているのである。画商は、「きちんと学校で美術を勉強しろ」だの、「冒険しろ、考え方変えなきゃ」だの、「みんなと違うことやらないと」だの、「メッセージ性やコンセプトがあるのが良い」だの、「もっと狂わなきゃ。生死の狭間のぎりぎりの精神で考えなきゃ」などと、それらしいことを言って真知寿を惑わし、振り回すのである。画商はしかし、そうやって否定した絵さえも、真知寿の知らぬ所では、うまく売りさばいていたりするのである。
この画商は、監督にとっての世間の評判のメタファーだろう。マスコミのバッシングや、批評家たちの不評など、いちいち聞いていたらどうすれば良いか分からなくなっても仕方がない。
この作品「アキレスと亀」は、そんな迷いと決別するための意思表示かも知れない。「TAKESHIS’」で掲げられたテーマの「フラクタル(自己相似)」、「監督・ばんざい!」の序盤に出るの文字「Opus 13/19(循環小数・中心的三角素数)」、は両方とも無限を表している。「アキレスと亀」のゼノンのパラドックスも無限を呈していながら、実は有限である。ラストで「アキレスは亀に追いついた」と明言しているように、監督はこの作品を発表することで、これまでの葛藤と迷いに終止符を打ったのだろう。
冒頭で、この作品がペンキ屋だった父親へのトリビュートのようだと書いた。監督は、こんな詩を書いている。読むたびに、なぜか、涙が出てきてしまう。
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父
またとうちゃんが母を叩いた
母が僕たちを抱え込み、早く寝ろと
ふとんに押し入れる
母の泣き声がやみ、静寂が訪れる
寝られず、トイレに立つ僕
台所の隅で、野良犬のように
チラっと僕を見て、恥ずかしそうに
酒を飲むとうちゃん
この父が嫌いだった、自分を恥じている
(ビートたけし著「詩集・僕は馬鹿になった。」)
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