特にファンと言う訳ではないのだが、私は原節子が出演している映画を観るのが好きである。彼女が画面に現れると、途端にその映画の格調が上がり優雅さを帯びてくる。気品と艶をブレンドしたような吐息混じりの話し方、清楚で淑やかな佇まい、神秘的で雅やかな微笑み、奥ゆかしく楚々たる所作、上品な言葉遣いや美しく正しい日本語。観ていると、昔の日本女性はこんなに素敵だったのだ、と嬉しくなってくる。また、ラブシーン、ヌード、入浴シーン、水着シーンなどを断り続けたという彼女の出演作品は実に無難で、すなわちオールPG13である。ちなみにキスシーンは出演した100本以上の映画のうち、たった二回という、生粋のお嬢様のような女優であった。
しかし、一世を風靡した原節子が日本一の美貌か絶世の美女かと問われると首をかしげざるを得ない。確かに目は大きく彫りの深い洋風の面立ちである。しかし鼻は大きめだし、身長は165cmでガッチリした体格の良さ。竹久夢二の描く美人画のような線の細いなよやかさは全くない。当時の女優では、山口淑子、山本富士子、岸恵子、岡田茉莉子、若尾文子、司葉子など、もっと完璧なシンメトリーの美しい顔立ちの女優はたくさんいたのに、日本中を熱狂させたのはなぜ原節子だったのか。人を惹きつけ夢中にさせる魅力や魔力は、顔立ちの端正さだけでは測れないという証明のようでもある。
当時は空前絶後の人気を誇り、「永遠の処女」や「日本のグレタ・ガルボ」と呼ばれ、現代では日本映画史に金字塔を打ち立てたとして「伝説の大女優」や「映画の女神」と讚えられ、日本人なら誰でも知っている原節子である。歌手山口百恵と同様の現象、つまり引退後は一切メディアに顔を出さなかったことで、語り継がれるエピソードがますます神懸かっていくのである。その伝説の数々の核心に迫ってみたい。
伝説その一:生涯独身
原節子は95歳でその寿命を迎えるまで、独身を貫いたことで知られる。交際相手として噂にあがった殿方は、小津安二郎監督、当時東宝の社長だった藤本真澄、俳優三船敏郎、ベルリン五輪陸上選手矢澤正雄、義兄熊谷久虎、GHQ司令官マッカーサー元帥まで様々だ。世界大恐慌のあおりを受けて裕福だった実家が破産し、家計を助けなければならなくなった原節子が、15歳で女学校を中退して女優になったのも、映画人であった義兄のすすめであった。マネージャーのような存在であったこの義兄には、過分に依存気味であり、多大なる影響を受けていたとされている。引退後は義兄夫妻の敷地内に新しい家を建て、滅多に外出さえしない隠遁生活を送った。80年代には義兄と姉光代が続けてこの世を去ったが、その後30年近く夫妻の子供とともに生活を続けたという。この義兄と原節子の関係性は他の誰とよりも謎に包まれている。
伝説その二:ナチス
原節子はとある映画の撮影中、撮影所に見学に来ていたドイツ人の映画監督アーノルド・ファンクに見初められ、初の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜擢された。16歳の若さで国際派女優となる。ナチス(国民啓蒙)宣伝省は、近く防共協定を結ぶ日本のイメージ向上のため、原節子をドイツ国民に対するプロパガンダの申し子として利用した。ヒトラー総統・ナチス幹部も「新しき土」を絶賛したとPRし、ドイツ国内で同作品は商業的に大成功を収めた。ナチスに招待された原節子が、義兄らに付き添われてベルリンへ訪れた際、一行は各地で大歓迎されたという。またこの映画の製作は、実際は協定の交渉のために、両国の人材がお互いの国を頻繁に往き来するのを、カモフラージュするのが真の目的だったといわれている。
伝説その三:突然の引退
・撮影用の強いライトを浴びすぎて白内障を発症、手術後も視力がかなり落ちていたという説。
・足を悪くし、畳の上で正座する芝居が無理になったという説。
・義兄が監督する映画の撮影中、カメラマンだった実兄が車に轢かれて亡くなるのを目撃してしまったトラウマが原因という説。
・尊敬していた小津安二郎監督の死に殉じたという説。
・戦意高揚映画の象徴から一転、戦後リベラリズムの偶像への転身が辛かったという説。
・美貌の衰えを世に晒すまいと35歳で引退したグレタ・ガルボに影響され、倣ったとする説。
・映画界の斜陽化(テレビ普及による新時代到来)のためとする説。
・そもそも人前に出るのが苦手だったという説(試写会や劇場での舞台挨拶、映画の完成記念パーティー、ファンサービスの催しなどにも一切出席しなかった上、晩年は近所付き合いもせず、ひきこもりのような生活を送ったことから推察)。
伝説その四:右翼
戦時中は、義兄が「スメラ学塾」と呼ばれる国粋主義的な政治結社の中心人物として活動していたため、原節子も右翼的思想に傾倒していき、数多くの戦意高揚映画に出演した。敗戦後、彼女は日本軍に加担したこと、自分の出演映画が多くの若者を戦地へと送り出す起因となったことを後悔し、自責の念に苦しんだという。
ちなみにこの「スメラ学塾」は、世界最古の文明を築いたシュメール人が東方へ移動し、古代日本に神武天皇をいただいて降臨したという「日本シュメール起源説」や、日本人とユダヤ人は祖先を同じくするシュメール人の末裔だという「日ユ同祖論」、またユダヤ人が世界征服を企んでいるとする「ユダヤ人謀略論」などを唱える団体である。敗戦後は、日本の無条件降伏を不服として、九州に天皇もしくは皇族のどなたかを招致し、独立国家「九州帝国」を建国、米軍と徹底抗戦するという荒唐無稽な構想を立てていた。
原節子がこんな怪人物の義兄を信頼し、そのイデオロギーに感化(洗脳?)されていたことは非運どころか悲劇である。相当運命を狂わされたのではないだろうか。彼女がこの義兄のそばを一生離れなかったことが不思議でならない。
追記:
私は原節子出演の映画は20本ほどしか観ていないが、最も魅力に溢れていたと思うのは、偶然にいずれも原節子が29歳の時に撮影されている次の3本、小津安二郎監督「晩春」(1949)、今井正監督「青い山脈」(1949)、木下恵介監督「お嬢さん乾杯」(1949)である。「晩春」はストーリーも微笑ましい上、原節子が若い頃のマリリン・モンローかと見紛うほどにチャーミングである。原節子初心者の方々には、入門編としてはうってつけだと思われるのでご参考まで。