「座頭市」(2003年版)について

白金髪、赤い塗りの仕込み杖、ラストで見せる淡い色の目。またもや賛否両論を巻き起こした北野映画第11作目、「座頭市」。誰にでも分かるストーリーラインに、新しいビジュアルや音響で楽しませてくれる北野流の娯楽映画は、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を始め、日本アカデミー最優秀作品賞など数々の賞を受賞し、国内外のメディアに絶賛された。斬新な演出でアレンジされた「妙な時代劇」には批判的な声も上がったが、その興行成績は、北野作品の中では現在でもぶっちぎりの一位である。

本作の一番の見どころは、誰もが唸るほどスピーディな殺陣だろう。余計な口上もなしに、目にも留まらぬ速さで逆手抜刀・逆手斬りをして見せる武の敏捷な動きには、他の時代劇とはまったく違った魅力にあふれている。目を閉じたままの立ち回りは無駄がなく、仕込み刀を杖の鞘に戻す動作の俊敏さ。武の運動神経が良さ垣間見える。CGの血しぶきの紅色や曲線的な飛び方も美しい。賭場での大立ち回りは、一見無駄な殺生のようにも見えるが、イカサマを見抜いて因縁をつけてしまった時点で、殺るか殺られるかの世界に足を踏み入れてしまったのだろう。基本的には、武が親の仇討ちを助太刀したり、町にはびこる悪を撃退するという、勧善懲悪の物語である。

ただ、凄腕の浪人役の浅野忠信は、悪者側の用心棒として雇われたがために、武の敵となってしまい、成敗されてしまうのが哀れである。すべては病身の妻の治療代を稼ぐためだったというのに。ラストで、武と浅野の居合の場面は、多くの人が指摘しているように、黒澤明監督「椿三十郎」(1962)のラストのオマージュだろう。三船敏郎が左手で逆手抜刀し、仲代達矢を瞬息で斬り、血が吹き出す伝説的な場面である。ここで武は、浅野の戦略の一枚上手に出て、いつもの逆手を順手に変えて、浅野を瞬息で斬るのである。また、浅野の死とほぼ同時に、妻もこれ以上浅野に負担をかけまいと自決する。可哀想な夫婦である。

また、ミュージカル的な演出も話題となった。冒頭から、畑を耕す農民たちの鍬や鋤のリズム、雨の中で田んぼでのタップや、燃えた家を建て直す大工たちの道具の音がそのまま音楽と呼応し融合するという面白さ。ラストの大団円でのタップダンスも賛否両論あるが、祭りという前提であり、悪人たちが殲滅されたことを祝う町人や農民たちの歓喜が、余すところなく表現されていて、私は悪くないと思う。実は初見ではあまり気に入らなかったのだが、見返してみると、これは舞台のカーテンコールに似て、アンコールに応えている雰囲気のようで、面白い演出である。

冒頭で武が宿場町に入る時、男女対になった藁人形を抱えた農民の列とすれ違う。恐ろしい形相の絵が顔の位置に付けてある。これはただの案山子ではなく、五穀豊穣、無病息災、悪虫退散を祈願する農民の神事、「虫送り」ではないだろうか。武は、この藁人形が道に放置されていたため、刺客たちに遭遇することを免れている。ここでさりげなく伏線を回収しているのが、また芸が細かい。

また、武と浅野が酒場で初めて出会う緊迫した場面にて、武が「あんたも血の匂いがするなぁ」と言うのだが、この台詞もさらに芸が細かい。てっきり「自分と同じように」という意味かと思いきや、ラストで明かされるのだが、実は「この酒場の爺さんと同じように」という意味だったのである。浅野との邂逅の直前に、酒を運んできたその爺さんは、偶然を装って武の仕込み杖を倒し、手に取っていた。それが偶発的な事故はなく、意図的な行為だったことを武はハナから見抜いていた訳である。

山本耀司デザインの武の衣装は、藍染の羽織・作務衣・襟巻きがすべて色の違う濃淡で(羽織は紫紺、上着は紺藍・下は薄藍、襟巻きは緑がかった蒼というお洒落さ!)、塗りの杖の赤が差し色となって、そのコントラストが美しい。赤と蒼が、脱色した髪の色に映える。この髪の色も賛否両論を巻き起こしている。金髪なのはおかしいという批判から、外国人説、ハーフ説、宇宙人説(蓮實重彦氏)、アルビノ(先天性色素欠乏症)説など様々な議論がされている。

実は、私は初見からアルビノだと完全に思い込んで観ていたのだが、「青い目を見られないように、通常目を閉じて盲人のふりをしている」という外国人説は、大変面白い発想だと思う。ハーフ説については、日本人とのハーフの場合はメンデルの法則に従って、濃い色素が優性遺伝となり金髪や青い目にはならないため、おそらく不正解。アルビノとして生まれてくる人は弱視・羞明(眩しくて目が開けられない)というハンデを背負っていることが多く、また、ラストで武が色素の薄い目を開けてみせるのが暗い夜であり、そして、江戸時代には徳川幕府により手厚い盲人保護政策があり、あん摩・鍼灸・琵琶法師は盲人の独占的職種として裁可されていたこと考慮すると、アルビノの主人公が弱視のために、あん摩として生計を立てていると推測するのが最も自然のような気がするのだが。

真相が何であれ、勝新太郎の泥臭いイメージが刷り込まれた座頭市を、白金髪に赤塗りの杖を持つモダンな座頭市に変身させるとは、北野監督の型破り(掟破り?)な着想にはただ感服する他はない。

ストーリーは、ある宿場町に、偶然三つの人生が交差したことから始まる。

宿場町

この宿場町には、10年前に大店の米問屋「鳴門屋」を襲った盗賊一味が根を下ろし、圧政を敷いて町人や農民を支配していた。一味のメンバーだった石倉三郎は「扇屋」を創業、ライバル店の「井筒屋」の主人を殺害し、店を乗っ取る。また一味は、岸部一徳率いる「銀蔵一家」として、それまで町で幅を利かせていた「船八一家」を一掃する。しかし、銀蔵一家を操っている本当の黒幕は、米問屋「鳴門屋」を襲った盗賊を率いていた「くちなわの親分」である。くちなわの親分は、現在は「酒場の爺さん」として、正体を隠している。

浅野忠信

宿場町に流れ着いた浪人、浅野忠信は用心棒として銀蔵一家に雇われる。浅野はもともと、ある藩の剣術師範だったが、殿様の御前で行われた(木刀)試合にて、無類の素浪人に無惨にも敗れてしまった過去があった。面子が丸つぶれとなった浅野は脱藩し、その素浪人を斬るために、病身の妻と諸国を巡り歩いていた。しかし、その浪人を見つけた時には、浪人は病床につき風前の灯火であった。浅野は無念のうちに、この宿場町にたどり着いたのであった。病身の妻のために、まとまった金銭が必要となり、銀蔵一家の用心棒として雇われることとなる。

鳴門屋の姉弟

10年前に、酒場の爺さん、銀蔵、扇屋の主人らが襲った米問屋「鳴門屋」は、夫婦、女中、手代まで殺害されたが、小さな姉弟だけは生き残った。二人は苦労を乗り越え成長し、親の仇を取るために諸国を流れ歩いていた。米問屋には事件の7年前から番頭として潜り込んでいた男がおり、事件の日は一味を手引きしたのであった。姉弟はまずこの番頭だった男を見つけ出し、殺害。残りの一味も銀蔵一家だと知り、戦いを挑む。

座頭市

諸国を旅して回るあん摩の武は、偶然、農婦の大楠道代と出会い、また賭場では偶然大楠道代の甥であるガダルカナルタカと出会い、そして鳴門屋の姉弟と知り合い、町の事情、姉弟の事情を知っていく。姉弟の仇討ちの助太刀をすることとなった武は、銀蔵一家、用心棒の浅野、くちなわの親分までを駆逐する。町には平和が訪れるが、その頃にはもう武はまた次の旅へと出発していたのだった。

ストーリーは、オーソドックスな時代劇、あるいは西部劇にも通用するような設定である。しかし、時代劇を観たというよりは、まったく違うジャンルのドラマを楽しんだ、という感想を持つ。見どころをもう一つあげるとすれば、子役として出演した12歳の早乙女太一の踊りである。子供とは思えないほどの妖艶さで、天才女形と呼ばれるのも頷ける。また、早乙女太一の成長した姿を演じた橘大五郎も、弱冠16歳での出演であった。確かに踊りはうまいが、早乙女太一と交互に映る踊りのシーンでは、子役に食われ気味であったかも知れない。

ラストで、実は目が見えていたのか、見えていなかったのかは、北野監督がわざと混乱するように仕掛けているので、論議すること自体野暮だと思うが、あえて思案を巡らすとすれば、私はアルビノ説を推しているので、弱視ということでは全く見えないわけではないと、考える。盲人の保護政策も充実していた江戸時代、羞明という症状で目を開けていられないアルビノとしては、盲人として生きるのが最善の策であったのではないかという推論にも、矛盾しない。

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