初めてこの映画を観た時に抱いた「こんなに格好良い映画が日本にあったなんて!」という感激と興奮は、大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976)を観た時の衝撃と似て、同じ日本人として誇らしく頼もしく思えるものであった。横尾忠則によるサイケデリックなコラージュのポスターも、既にカルト然とした魅力とインパクトに満ちており、30年以上経った今でも少しも古臭くない。以前取り上げた鈴木清順や寺山修司ほどではないが、海外でも意外と知られているらしく、私は本作をアメリカにて割合すんなりと入手できた。ブラックユーモア、ペーソス、サスペンス、ホラー、ロマンス、カーチェイス、アヴァンギャルドなど、すべてが投じられた珠玉の作品である。
この映画の主人公は、中学校の理科の先生。外見はかっこいいのに、遅刻の常習犯、授業中にもフーセンガムも噛んでいたり、寝ていたり、昼休みは一人で壁あてキャッチボール、奇声をあげてフェンスをよじ登ったり、木からロープをぶら下げてターザンごっこ、などの奇行が目立ちすぎて、生徒からも特に人気があるわけではないジュリー。唯一の友達は、時々餌をやる野良猫の「ニャロメ」。
そんな一見普通の冴えない教師が、実は自宅で原爆を作っていました、という驚愕のストーリーである。主人公の、ひとつひとつの行動が計算に入れられていて、無駄がない。キンチョールのスプレー缶に催眠剤を入れ、まず猫で試し、成功を確認後、交番のお巡りさんを狙い、その銃を奪うという鮮やかな手口。そして遠くから、まず双眼鏡で、次に望遠鏡で、東海村の原子力発電所の警備を偵察し、また建物内部の設計図は自宅の壁に貼って習得。そして海から忍び込み、海岸沿いのフェンスを破り、液体プルトニウムを盗みに入るのである。持参していた銃や火炎放射器(!?)で追っ手を撃退、仕掛けていた爆弾を発火させて逃げおおす、と、すべてが主人公の思惑通りに軽快にサクサクと進んでいく。
その後、自宅に作ったクリーンルーム内で、液体プルトニウムを金属プルトニウムに変化させ、ガイガーカウンターの数値を確認しながら原爆を作っていく。丁寧に手順を踏んでいるようにも見えるが、防護服の代わりのレインコート・長靴・フルフェイスのヘルメット・ゴム手袋は、かなり杜撰なようにも見えてスリル満点である。
やがて出来上がった原爆を手に、当局に脅しをかけようとするが、一体何を要求すればいいのかさえ分からないジュリー。ここで彼がアドバイスを求める相手は、友達でも同僚でもなく、原爆製作中に聞いていたラジオの深夜放送のDJ(池上季実子)。そして当局との交渉相手には、ひょんなことから知り合った刑事(菅原文太)を指名する。結局ジュリーは池上季実子の希望通り、「ローリングストーンズの日本公演」を政府に要求するのだが、それもまたつくづくカッコイイではないか。菅原の台詞に、「やつは他人に触れたがっている。私と話したがっている。それがやつのたった一つの弱点なんだ」とあるように、ジュリーは原爆のアルゴリズムを計算できるほどの天才なのに、基本的な人付き合いもままならず、原爆というツールを通して初めて他者とつながれるのである。あんなに綿密な計画立てて原爆を製作していたのも、結局、原爆を作ることより、原爆をダシに他者とつながること、誰かに認められることを目的にしていたのではないだろうか。しかし、そのつながり方もまた緻密に計算され、アッパーハンドを確保した上での、決して拒まれることのない交渉なのである。しかし唯一の友であったニャロメは、自分が寝ている間にプルトニウムの削りくずを舐めて死んでしまい、さらに唯一自分と関わった池上季実子も菅原文太も、次々と死んでしまうのである。
この作品のジュリーは、いわゆる「しらけ世代」(70年代〜80年代に青春時代を送った世代で、特徴は覇気がなく無気力・無感動)。そんな彼の冷めた態度、アパシー、虚無感、鬱屈、屈折、他者との距離や孤独にそこそこ共感する観客も多いだろう。しかしこの主人公の場合、他者との関係を築けないのはそれだけが原因ではないはずだ。「しらけ世代」という時代の風潮に偶然カモフラージュされているが、彼はそれ以上の「反社会的人格障害」を抱えているように思う。
例えば、反社会的人格には「サイコパス」と「ソシオパス」がある(ほぼ同義で扱われることが多い)。
サイコパスは遺伝など先天的な原因によるもので、脳の前頭葉・扁桃体の機能不全のため、情動にかかわる認知(良心の呵責・共感・罪の意識など)に乏しいという、脳機能障害のようなものらしい。反してソシオパスは育った環境の影響による後天的なもので、脳機能的には正常であり、良心も共感性も持ち得ているが、過大な自我・自尊心を優先し、他者の権利・常識・社会規範を無視する傾向がある。
本作と同じ年に発表された、村川透監督「蘇る金狼」(1979)の松田優作の役柄も相当な問題児である。両者とも反社会的人格障害だと言えると思うが、松田優作の役はサイコパス、ジュリーはソシオパスなのだと私は考えている。本作では、他人とのつながりを欲しながらも、うまく表現できない、普通の距離感で人間関係を築けない主人公の「内面の弱さ」も描かれているため、松田優作のような迷いのない超人的なアンチヒーローとは一線を画している。例え反社会的であっても世を驚かせ注目を浴びたい、唯一無二の存在になりたい、という犯行動機はよくあるものだが、それは不器用と呼ぶには病的すぎる、間違った求愛の方法である。
この主人公とよく似ているのは、ベン・アフレック主演「ゴーン・ガール」(2012)のロザムンド・パイクの演じた役ではないだろうか。ものすごく用意周到で、とても先まで見据えて計画を練っている。高いIQを持つ者が、その利口さを利己的に最大限活用し、周りを完全にひれ伏させるのである。反社会的だろうがなかろうが、自分が正しいと信じ、少しもブレない意志と実行力によって、ブルドーザーのように力ずくで、周りにもそう信じさせていく。どんなピンチに陥っても取り乱さず、的確に次の手を編み出し、いつだって敵より一歩先を進んでいるのである。
また、この作品は映像美も素晴らしい。東海村の施設から液体プルトニウムを盗みだす際の、水玉模様にライトアップされた床は鈴木清順かと見紛うほどのポップさ。中盤警察庁でタバコを吸う菅原文太のバックには紫とピンクのグラデーションの空、三面の大きな窓のシンメトリーに、美しい曲線を描く高架高速道路。菅原文太の射撃練習場は遠近法を使った正方形、蛍光灯の碧色に彩られている。また半透明の大型地図の向こう側に透けて見える刑事たち。アパートの窓に腰掛けてビールを飲むジュリーのそばにある銀の星のようなオブジェ。富士山の稜線をイメージしたといわれる武道館の流線的な大屋根をバックに、ジュリーと菅原文太が縦列に並んで映るシンメトリーのカット、などなど。
さて、果たして一般市民に原爆は作れるのか。この映画は完全なるファンタジーなのか。
現代でも「化学の専門知識のある者であれば、原料さえ入手できれば簡単に作れる」という説と、「高度の工学技術を必要とし、国家レベルでも製作は困難である」という説が互角に拮抗しているようだ。色々調べてみた結果、原爆には二種類あり、製作において、それぞれ容易には越えられない障壁があるようだ。
ウラン・筒型(広島) → 必要なのは濃縮度90%以上という高濃縮ウラン。日本の原発で使われるウランは濃縮度3%程度。しかも日本は「濃縮された状態」のウランを海外輸入している(一応、六ヶ所村にも濃縮設備があるが、トラブル続きで順調に操業できない状態らしい)。そもそも90%以上に濃縮するには膨大な電力と時間がかかるため、一般市民には完全に無理である。
プルトニウム・球型(長崎) → 原発の「使用済み核燃料」を再処理すれば抽出可能。日本では、東海村(茨城県)と六ヶ所村(青森県)に再処理施設がある。しかし、火薬爆発の圧力を、球形に均一に中心のプルトニウム核に届けるという「爆縮」の技術が、不可能に近いほど難易度が高いらしいので、やはり一般市民には、無理だろう。しかし、完全な「爆縮」効果を起こせなくても、火薬自体の爆発によってプルトニウムが飛散することで、放射能汚染を引き起こすことは充分可能。
実際1994年、米国ミシガン州で、当時17歳の化学マニアの少年が自宅の裏庭で、お手製の核増殖炉を実験稼働させるという事件があった。実験では臨界点には達さなかったものの、通常の1000倍の放射能汚染を放出していたため、大々的な除染作業を要する、連邦政府レベルの非常事態となった。その時点で生涯許容被曝量を超えてしまった彼は、その後、39歳の若さでこの世を去っている(被曝との因果関係は不明)。
本作品の主人公が使用する装置は後者の「プルトニウム・球型爆弾」である。製作技術が未熟でも、原爆に対する集団的トラウマを抱える日本人には、社会的パニックをもたらすには充分な代物である。公開当時の興行収入がふるわなかったのも、この過激なテーマを面白おかしく描くことを、戦後30年の日本人たちにとっては不謹慎かつ悪夢のように感じられたからかも知れない。当時人気絶頂であったジュリーのミステリアスな美しさを余すところなく捉えており、やはりこの役にはジュリーしかいないと思えるのである。今となっては邦画史に残るカルト映画であり、日本映画として世界に恥ずかしくない作品の一つである。