一般的に「TAKESHIS’」(2005)、「監督・ばんざい!」(2007)、「アキレスと亀」(2008)は、北野武監督の芸術家三部作、葛藤三部作、フラクタル三部作、自己投影三部作、自己言及三部作、「俺、もう何撮ったらいいのか分かんねぇよ」三部作(by 映画にわかさん)、などと呼ばれている。監督自身も「2006年の夏ぐらいまでは、医者には再検査しろと脅されるわ、いきなり大量の鼻血が出続けるわで、なんだか体調が悪かった。」(2007年・北野武著「全思考」より抜粋)と語っているように、これらは体調不良、心理的葛藤といった、エグジステンシャル・クライシス(実存的危機)の中で産み落とされた、腐心と意匠惨憺の結晶のような作品群である。
その中でも、北野武監督の危機的状態を最も如実に物語っているのは、「監督・ばんざい!」であると私は考える。それは、ハリボテのたけし人形によって、それまで監督の著書の中で度々出てきた「乖離」や「自分が抜ける」という自己分裂のような現象が、そのまま具現化されている上、破壊衝動に関しても、繰り返されるたけし人形の死、アステロイドが地球に衝突してすべてが消滅するラストなど、本作にこそ至極濃厚に現れているように感じられるからである。
とは言え、私の本作に対する評価は、北野作品の中で一番低い。それは後半部分において、TVバラエティ番組のようなギャグが延々と展開し、すべてをぶち壊してしまうからである。くだらなさすぎて笑えるという類でもなく、あくまでも私のテイストに合わないということなのだが、「菊次郎の夏」の後半部分の遊び心とは毛色の違う、ビートたけしによる悪ノリのパフォーマンスでしかない。(それでも、この人が日本の宝だと思う私の心は変わらないのだが・・・。)
今回はこの作品のいくつかの側面に関し、ご本人の著書から、監督の意図やコメントなどを引用させて頂こうと思う。
私個人としては、「TAKESHIS’」の方がはるかに綺麗な構造をしていると思うのだが、監督自身は、「TAKESHIS’」は混沌とした精神状態で作ってしまったが故に、それが映像に反映されているだの、はっきりしたイメージがなくアバウトに撮ってしまっただの、作品自体が力不足だの、何だかんだと批判的である。反対に、私にとっては(特に後半)カオスでしかない「監督・ばんざい!」に関しては、明確なビジョンがあったようで、監督は次のように述懐している。
「・・・破れかぶれの八つ当たりみたいな映画になってるんだけど、実は意外に計算、ちゃんとしてあるんだよな。俺が、数学者としてはね、あまりにも数式が綺麗すぎるって言ってたんだよ(笑)」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
「・・・何を作るのかってことが、俺自身わかってて、ぐいぐい行っちゃったんだけど、スタッフは何作ってるかわかんないっていう(笑)」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
インタビューなどでは、固定したイメージに縛られることから解放されるために、すべてを壊してリセットしなければならない、と述べている。また、この作品の批評・評論の中で頻繁に論じられる「自己解体」や「破壊願望」については、監督は次のように語っている。
「『監督・ばんざい!』は、いかに俺はダメな映画監督か、という自己否定の映画。俺が、今まで撮った俺の映画を、批判していく作品だ。」(2007年・北野武著「全思考」より抜粋)
「自分の人生の残りの時間やなんか考えれば、撮らないっていう意思表示をするためには、自分のキャリアをまず壊さなきゃいけないんで。まず、自分で映画を撮って、自分でまた自己批判して、全部すっ飛ばしてしまって、チャラにしたって感じあるね。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
「だから、今当たってるような映画はいつでも撮れるっていうのを見せといて、『こんなものは撮れるけど、俺はこういうものじゃないんだよ』って言ってやめていこうと思って(笑)。だから、自分で自分の作品を観ながらつっこんで。『この映画もダメでした』って言っといて、実は裏では『ほら、俺でも撮れるじゃんこんなもん』っていうようなことをみせといて、なおかつ改めて『自分はダメでした』って、みんな隕石でぶっ壊しちゃおうと思って。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
本作の前半は、監督の言葉通り、その力量を証明すべく様々なジャンルのオムニバス作品で構成されている。イメージの固定化を避けるため、「ギャング映画はもう二度と撮らない」と宣言してしまった映画監督が、新しいジャンルを手がけては失敗するという悪戦苦闘の様子を、次から次へと綴っていくという前提だ。
まず監督が挑戦するのは日本映画の原点、小津安二郎作品のような庶民派映画である。小津調を意識して撮った劇中劇「定年」は、展開がスローすぎるという、伊武雅刀のナレーション(つっこみ)により失敗となる。そこで、たけし人形は首吊り自殺を図る。
また、愛と涙の恋愛もの「追憶の扉」は、その中でもさらに3話のミニ・オムニバスにより構成されている。伊武雅刀に弱点をつっこまれ、失敗となると、たけし人形は足に錘を付けて入水自殺を図る。
次に「三丁目の夕日」のようなノスタルジックな、昭和三十年代の日本を舞台にした「コールタールの力道山」では自伝に近いエピソードを下地に、子供達の視点から描いたものだが、暴力映画より悲惨な展開に陥り、これも失敗。たけし人形は額を撃ち抜かれて死亡している。
そして恐怖映画、ホラーのジャンルに手をつけた「能楽堂」ではシリアスに演じているのに、コメディになってしまい失敗。たけし人形は顔が半分砕けた状態で池に浮いている。
さらに、拳銃がだめなら刀だと、現代チャンバラ劇に挑戦するも、下駄を脱いで目を開けた座頭市に過ぎず、それなら「座頭市2」を撮れということになり、失敗。たけし人形は井戸にまっ逆さまに落下。
最後に、SF超大作「約束の日」にトライする。しかし、この話が撮影中にどんどん支離滅裂な方向へと脱線していく。実際、北野監督は撮影現場で台本をどんどん書き直してしまうらしいが、「約束の日」の逸脱の有り様は、監督のネタ帳のジョークを、やみくもに面白半分に具現化していったような完成度の低さである。監督自身が、「・・・『監督・ばんざい!』を撮ってるときは、結構楽しかったね。頭ん中、テレビのバラエティみたいだったね。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)とコメントしているように、後半に描かれるのは「TV番組におけるビートたけし」の姿そのものであり、私のように「映画監督の北野武」に傾倒する者には苦痛でしかない。
以前「ソナチネ」の感想を投稿した際にも書いたが、私はもともとTVで見るおちゃらけたビートたけしが大の苦手であった。しかし、北野武監督の映画の繊細な演出、その芸術的な映像美に衝撃を受け、いわゆるギャップ萌えでファンになってしまった口である。逆に、北野映画は好きでないが、TVで見るビートたけしは大好きだというファン達もいるだろう。ビートたけしと北野武は、同一人物とは到底思えないほど、正反対のペルソナである。どうやって二つの人格を共存させているのか、あるいは折り合いをつけているのだろうか。
「芸人をやって、映画監督をして。ビートたけしをして、北野武でもいるという今の人生は、ほんとうに疲れる。」(2007年・北野武著「全思考」より抜粋)
「お笑いでも映画でも、自分のやってることに対して客観的に見ている、もう一人の自分がいる。『ビートたけし』と『北野武』の操り人形が一個ずつあって、その人形を上のほうから『俺』が操ってるような感じ。どれが本体か分からない。」(2009年・ビートたけし著「下世話の作法」)
と、本人も語っているように、これまでは二つの顔をきっちり使い分けてきたはずなのだが、この「監督・ばんざい!」の後半部分では、明らかに北野武の領域にビートたけしが入りこんでいて、両者の世界がクロスオーバーしているのだ。
それだけでなく、本作の中で岸本加世子に「都合が悪くなったら人形になりやがって」と罵られているように、本作において、たけし人形は「北野武」あるいは「ビートたけし」に及ぶ危害、揉め事、厄介事をすべて引き受ける役割を担っている。作品の前半では、北野武が新ジャンルの映画撮影に失敗するたび、監督の身代わりとなって、多種多様な形で死んでみせている。
ここで私はふと、これって解離性障害の症状に似ているなぁ、と思ってしまった。普通の人が持つ性格の裏表や多面性とは違い、自分自身が分裂してしまい、心身にダメージを受ける時に、無感覚人格や保護者的人格などの「交替人格」が現れる症状である。冒頭で書いたように、これまでの監督の著書の中でも「乖離」や「自分が抜ける」という表現は再三出てくる。
「自分がぶん殴られるときでも、イヤだとかって恐怖の前に、ポンッと自分が抜けちゃう癖ってのがあったからね。・・・自分だけども、本当の自分じゃないとかね。」(2002年・北野武著「孤独」より抜粋)
「・・・痛みに対してとかね、あらゆるとこでポッと抜ける癖があって。それは子供のときから培われたっていうかね。・・・それはもう大人になってからもそうだもんね。」(2002年・北野武著「孤独」より抜粋)
「そうやって、分裂っていうか、自分と仲間が遊んでる姿をもう一人の自分がこう、客観的に見てて(中略)・・・内心は、もう一人の自分がこうやって、操り人形でやってるだけで。」(2002年・北野武著「孤独」より抜粋)
前作の「TAKESHIS’」、本作「監督・ばんざい!」に共通して言えるのは、解体、破壊というよりも、北野監督が危ないくらい生身の自分自身をさらけ出していることだと思う。「TAKESHIS’」では夢の中で現実がデフォルメされていくのだが、監督が意図的に台本を書いている以上「夢判断」とは言えないが、そこには明らかに北野監督の不安、孤独、悲哀、罪悪感、抑圧された欲望や怒りなどが投影されていて、専門家から見れば監督の心理は丸裸にされてしまうはずだ。
「監督・ばんざい!」では、北野武監督としてのインテリ芸術家のイメージを覆すべく、後半にはもう一つの人格であるお調子者のビートたけしを登場させ、どちらか一方だけを愛するファンを嘲笑うがごとく、ビートたけしのギャグを連発させては、前述のイメージを粉砕している。また、たけし人形にすべての損害を負わせることで、逆に監督の繊細さが浮き彫りになっているようにも思う。
一つ確実なことは、北野監督は一つどころに留まらず、どんどん進化していっているということだと思う。溝口健二監督や成瀬巳喜男監督のような、固定されたスタイルには安定感があるが、次に何をやらかすのかが予測不可能なところこそ、北野武の真骨頂だと考える。私は「ソナチネ」のような、監督の感覚でしか撮れないような作品を作って欲しいのだが、監督はこれからの映画製作に関して、次のように語っている。
「『TAKESHIS’』の前ぐらいまでは、意外に、期待されてるイメージをそのままやろうとしてたからね。『俺の映画はこうだ』とか。・・・結局俺の映画って『ソナチネ』とか『HANA-BI』とか、そういうイメージ強いじゃない。そういうのを守ろうとした時代もあんだよね。もう一回ああいうのをやりたいとか。でも最近はあんまりそういうのがなくなっちゃったから。」(2008年・北野武著「女たち」より抜粋)
「エンターテインメントな映画もときには手がけつつ、まったく新しい種類の作品を撮っていくのが理想だ。人から難しいと言われようが、撮っていて精神的にひどく消耗しようが、それは続けていくつもりだ。・・・自分で無茶だと思っても、どんどん変わっていきたいと思う。」(2007年・北野武著「全思考」より抜粋)