「水で書かれた物語」について

「水で書かれた物語」(1965)は、吉田喜重監督が9年間勤めた松竹を電撃退社し、独立後そして女優岡田茉莉子との結婚後に制作した第一作目の作品である。原作は当時「青い山脈」や「若い人」などで国民的人気を博していた流行作家、石坂洋次郎による同名小説「水に書かれた物語」。「百万人の作家」と呼ばれた石坂洋次郎の作品は、「健康的で明るい、ユーモラスな庶民派文学」のイメージが強く、大手映画会社によって数多く商業映画化されていて、それはどれも石原裕次郎や吉永小百合を主演に制作された青春物語である。1966年には石坂は、その「健全な常識に立ち、明快な作品を書き続けた功績」が評価され、菊池寛賞を受賞している。

しかし、「水に書かれた物語」だけは、石坂のビブリオグラフィの中でも唯一といえる程、暗鬱で重苦しい作品だ。従って、石坂文学を原作としたフィルモグラフィの中でも、本作だけは全く毛色の異なる、暗澹たるメランコリアに満ちている。その憂鬱なテーマは「近親相姦」、なんとも喜重監督らしいチョイスではないか。本作は、独立後に発揮される「喜重スタイル」を確立する転機となった、重要な一本とも言われている。

本作のDVDの特典の中で、喜重監督自身がキッパリと次のように語っている。「映画のテーマは、危険な言い方かも知れませんが、『近親相姦』、母と息子の近親相姦を描いています。しかし、ギリシャ古典劇のように、ある程度抽象化して描いていますから、生々しい表現にはなっていません。近親相姦を具体的に見せるのではなく、『なぜそうならざるを得なかったか』を観客に読み取らせる、観客の想像力に賭けたのです。これは、父、夫、国家、天皇を頂点とした『父』を中心に作り上げてきた日本の歴史、その父権主義、男性優位を批判したものです。

この環境で「ギリシャ古典劇」という言葉に引っ張られると、どうしてもオイデプスを連想してしまうが、ソフォクレスの「オイデプス王」の話はあくまでも、当事者たちが母子であることを知らずに起こった悲劇であり、またフロイトが名付けた「エディプス・コンプレックス」はあくまでも、「オイデプス王」の結末のみに着目した結果論である。喜重監督は「なぜそうならざるを得なかったのか」という、この母子が倫理に背いていく「過程」を描いているので、ギリシャ古典の「オイデプス王」は全く無関係と言えるだろう。

「ギリシャ古典劇」とは、2500年前のギリシャ、アテネで花開いた人類最初の演劇である。ここで喜重監督の言う「ギリシャ古典劇」とは、仮面を付けて演じたり、合唱団が話の大意を歌ったり、朗読して伝えるフォーマットのことで、あくまでも抽象的かつ観念的な表現方法を指しているのだとする。

フロイトの提唱する「エディプス・コンプレックス」については、一般的に「男児は母親には性愛に近い思慕、愛着、独占欲を持ち、そのために父親には嫉妬、憎悪、敵対心、対抗心を持つ」という心理として知られている。解りにくい理論だが、ひとつの解釈では、父親が「大人たちの社会」の象徴であるなら、父親に対する反感は、子が大人へと成熟すること、大人として外の世界へ羽ばたいて行くことへの畏れである。逆に母親は「子供の安全地帯」の象徴であり、子の母親に対する敬愛は、子がいつまでも子どもとして甘えていたい「自己愛」の顕れである、という。つまり、「もう少し子供のままでいさせてよ」という子の甘えが、「もう大人だろう、自立しろ」と諭す父親によって打ち砕かれる構図となっており、すなわち「エディプス・コンプレックス」とは、いわば父の愛の鞭に対する反発であり、その克服は、子が大人に成長していく必然的なプロセスなのかも知れない。

しかし、本作で描かれる「義父」としての橋本伝蔵(山形勲)は、「実父」である松谷高雄(岸田森)が病床に伏せていた頃から、自分の母親の静香(岡田茉莉子)と関係していたわけで、主人公、松谷静雄(入川保則)の憎悪はもちろん「実父」ではなく、完全に「義父」一人に向かっている。それは、自分の幸せな家族を破壊しに来た闖入者、自分の大切な父親を蔑ろにした極悪人、父親の心を踏みにじった人でなし、大切な母の心を弄んだ狼藉者、に対する嫌厭であり、マザコンとかエディプス・コンプレックスを持ち出す以前に、親の不倫を知った子の反応としては至極真っ当なリアクションだろう。デパートの社長である伝蔵が町の権力者であり、金遣いも芸者遊びも派手で、また、その娘は何不自由なく育った天真爛漫なお嬢様であり、父を早くに亡くした静雄にとっては、ルサンチマンに近いものがあったのではないか

こういった静雄の心情から、母の関心を伝蔵に向かせたくない、伝蔵と会って欲しくない、自分と実父を裏切らないで欲しい、何もかも手にしている伝蔵に母まで盗られたくない、と思うに至るのは自然なことだろう。病身の余命いくばくもない夫と幼い息子を放って、町の有力者である伝蔵に逢いに行っていた不実な母親を、まったく憎むことができないのも、母一人子一人で育った背景を考慮すると仕方のないことかも知れない。そうして静雄の憎悪は、伝蔵一人に向かっていくのである。

伝蔵の娘、ゆみ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えた静雄は、その結婚をやっかんだ外野から、母親と伝蔵の過去の秘密を知らされるのだが、静雄はショックを受けつつも、「父親が早くに亡くなったのだから、美しく若い未亡人の母に、一時的に男がいたとしても仕方がない」と諦められるほどには冷静な大人であった。

そして静雄は腹を割り、「まさか父さんが寝込んでいる時じゃないだろうね」、「万一そうだったら、僕はお父さんの子じゃなく、橋本伝蔵の子かも知れない。そうだとしたらゆみ子さんとは異母兄妹かも知れない」と、最も憂慮する二点について問いただすが、これらは静雄の立場において、とても妥当で合理的な質問である。母親は、前述の質問には「あなたはそんな目で私を見てたの!?」と逆ギレしてみせ、「あなたはお父さんの子です。松谷高雄の一人息子です」と言って泣き崩れるのであった。すっかり安心した静雄は、「ただ一度だけ、母さんの口から確かめたかったんだ」とスッキリした気持ちで、ゆみ子との結婚に踏み切るのだが・・・。

母の言葉を素直に信じた静雄はしかし、ゆみ子との新婚旅行の帰りに立ち寄った旅館で、偶然にも、母親と伝蔵もが泊まっていたことを知ってしまう。今でも繋がっている二人。つまり、母の言葉には偽りがあったことに気づき、母親の巧みな嘘に衝撃を受けるのであった。やはり母はずっと父と僕とを裏切っていたのか、やはり自分とゆみ子とは異母兄妹なのではないか、と再び疑心暗鬼に陥っていく。静雄は今更ながら母親の愛情を疑い、幼い頃から大好きだった母親の不義と裏切りに、改めて傷ついていくのである。

子にとって、この世で最も信用できるはずの母に裏切られ、人間不信に陥ってしまうのは仕方のないことだろう。静雄は、ゆみ子の愛を試したり、伝蔵を責めたりして自動車事故まで起こすが、どうしても母親を憎むことだけはできない。母親の不倫を憎み、母親を責めることができたなら、「近親相姦」というインモラルの領域へ足を踏み入れることはなかっただろう。静雄は、裏切られた哀れな実父と一体化し、母親の愛情・母性だけではなく、その肉体をも独占したいばかりに、文字どおりの母胎回帰とも言える衝動を持ってしまった、と説明できるのだろうか。本作では、その問題の夜、母親は睡眠剤を飲んでいて意識朦朧、息子は泥酔した状態であり、二人で一緒に死ぬことを前提としている。喜重監督自身が「近親相姦」を描いている、とハッキリおっしゃっているので、そうなのだろうけど、その後の母子の様子からは、とてもそんな罪深い二人には見えない。罪悪感や葛藤、後ろめたさなどは全く描かれておらず、翌日何事もなかったかのように、息子はゆみ子と、母親は伝蔵と逢っている。しかし、母親は、息子を呪縛から解放するため、そのまま伝蔵と無理心中を図るのであった。

「水で書かれた物語」というタイトルは、石坂洋次郎がイギリスの詩人、ジョン・キーツの墓石に彫られた「水にてその名を記されし者ここに眠る」、という銘文にインスパイアされたものだという。歴史に名を刻むこともなく、儚く消えていく無数の命を表現したものである。本作でも「水」はモチーフとして多用されている。繰り返し舞台となる温泉浴場、また、泥酔した息子に渡すグラスの水、車の事故から目覚めた息子に飲ませるグラスの水、事故現場は山なのに、夢の中で海の水際に倒れている息子(胎内回帰のイメージか)、一緒に自殺しようと持参した睡眠薬の瓶とグラスの水、そして母親が「夢を見てたの、おかしな夢。大きな川をどこまでも、どこまでも流されて」と語った通り、入水自殺を図り、息子と嫁はボートに乗って母の行方を探すが、母の白い日傘だけが水に沈んでいるのであった。

戦時中は無地の白だが、戦後はバラの刺繍の透かしが入った、洒落た白い日傘は母親のトレードマークであり、母の女の部分の象徴でもある。伝蔵との逢い引きに向かう小走りの足取り、そしてクルクル回される日傘は、母親の浮き立った気持ちを十分に表現している。着物姿に日傘をさす、若き日の岡田茉莉子の美しいこと。撮影当時、岡田茉莉子は32歳であり、息子役の入川保則は26歳、その嫁役の浅丘ルリ子は25歳と、同世代であった。しかし、岡田茉莉子の口調やたたずまいは、まさに中年女のそれであり、十分に入川の母親として真実味がある。素晴らしい演技力である。この頃の浅丘ルリ子は、痩せすぎておらず、お茶目な表情なども可愛さの絶頂である。入川保則に関しては、ただのマザコンのように描かれており、母親を性愛の対象として見ているような、妖しさや色気はなかった。

石坂洋次郎の本書はすでに絶版となっていて、青空文庫でも読むことはできない。よって、原作では実際どのような描写になっているのか、確認のしようもないのが残念である。喜重監督がこの小説の映画化を企画した時、東宝や日活などによる映画化に慣れていた石坂洋次郎は、喜重監督の脚本を見るまでもなく、「出来上がったものを観るだけでいいです」とあっけなく承認したという。石坂洋次郎原作のフィルモグラフィの中でも、喜重監督作品だけは一際異彩を放っている。

なぜこの作品が物議を醸すかと言えば、もちろんそのテーマの「近親相姦」である。しかし、すべてがその一点に収束するほどには鮮烈に描かれていないので、それよりも母親の不倫を知った子供の苦悩に終始したストーリーのようである。ずっと信じ抱いてきた、聖母のような完全無欠たる母親のイメージが、完膚無きまでに砕かれる、厳しい現実に直面する一人息子の受難である。この母親は美しく、優しく気高く、上品で愛情深く、理想的な母親像であると同時に、病気の夫と幼い息子を薄情にも裏切り、金持ちの男と関係を持ち、真相を問いただそうとする息子にも平然と保身の嘘をつく、かなり神経の図太い悪女でもある。このような女のミステリアスな多面性こそが、喜重監督の言うところの「男性優位に対する批判」になっているのかも知れない。また、自動車事故後の夢の中で静雄は女たちに翻弄されるが、それは今まで関わってきた女性たち(母親、嫁、母の弟子のミサコ、芸者のハナヨ、怪文書を引き出しに忍ばせた女子行員)が全員勢揃いし、喪服を着ていたり、看護婦姿であったりする。静雄が中学生の頃にも、数名の女学生たちにからかわれているシーンや、ミサコにイタズラされている場面もある。これらは、男性のイニシアチブを取り上げるような表現になっており、喜重監督の父権主義の批判と読むことができるかも知れない。

最後に、近親相姦については、進化論的な見地(劣性遺伝子の発現を防ぐ)から、人は自然発生的に近親者との交わりには嫌悪感を抱くとされている。また、道徳的直感としての嫌悪感や、ウェスターマーク効果(幼少の頃から親密な関係を持った人間は性の対象にならない)などの仮説もある。しかし、もしそのように人間に近親相姦を避ける機能が備わっているなら、なぜタブー視したり、法で抑制せねばならないのか、という反論がある。それは、幼児ポルノやレイプを法で規制しなければならないのと同様に、ほとんどの人には正常な機能があるが、その機能が壊れている少数のためだろう。

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