大島渚監督の代表作品の一つである「戦場のメリークリスマス」(1983)は、大島監督のフィルモグラフィーにおいて最後から三番目の作品である。私は中期(ATG時代)の大島作品は実験的すぎて苦手なのだが、後期の作品である「愛のコリーダ 」(1976)、「戦場のメリークリスマス」、「御法度 」(1999)の三作は、かなり神がかった名作だと思っている。特に「愛のコリーダ 」(1976)と「戦場のメリークリスマス」(1983)には外国資本が入っているせいか、邦画の通常のスケール感をはるかに凌駕するダイナミズムがある。
「戦場のメリークリスマス」は奇跡の映画である。そもそも、当時、人気の絶頂にあったデヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしの三名を揃えるという発想自体が奇跡である。初めて映画音楽を担当することとなった坂本龍一も、その才能を見事に開花させ、生まれた「Merry Christmas, Mr. Lawrence」は奇跡のように美しい曲である。本作を観たことがなくても、日本人でこの主題曲を知らない人は稀だろう。かの有名な、ヨノイ大尉とセリアス少佐のキスシーンのカメラの揺れも、意図的な演出ではなく、機材の故障だったという偶然という名の奇跡。セリアスが息を引き取る時に髪にとまる白い蛾も、偶然スタジオに紛れ混んできて、ボウイが最後に使おうと提案したのだという。
二転三転したキャスティングの裏話も有名であるが、オファーの経緯は、セリアス役にはロバート・レッドフォード → ニコラス・ケイジ → デヴィッド・ボウイ。ヨノイ役は、三浦友和 → 沢田研二 → 坂本龍一。ハラ役には、勝新太郎 → 緒形拳 → ビートたけし、と決まり、主演クラスの三人が職業俳優ではなく、ミュージシャンや芸人を起用するという、大島監督の大博打的な人選は大当たりし、他の俳優では考えられないほどの奇跡的なハマり役となった。ボウイの高貴な英国訛りの英語も、この映画の格調を底上げするに一役買っていると思う。
難解だといわれながらも大ヒットを記録した「戦場のメリークリスマス」だが、当時リアルタイムで映画館に足を運んだ観客で、この説明的描写が削ぎ落とされた作品を理解できた人がどれだけいただろう。言語化できない不思議な感動に包まれ、美しい映像と音楽と退廃的な雰囲気に酔わされ、よく解らないまま感激してしまった人も多いのではないだろうか。また再見するたびに、違う印象を抱く人もあるだろう。反日映画、男色映画と揶揄されることもあるが、見れば見るほどに、そんな要素以上に、豊潤な人間性と愛と詩情のあふれる作品であることが解ってくる。つまり、何回も観ないと解らない。
1942年のジャワ島の捕虜収容所には、征服者と捕虜、勝者と敗者、強者と弱者、武士道と騎士道、神道・皇道とキリスト教、軍国主義と民主主義、愛と暴力、国・集団と個人、ヘテロセクシュアルとホモセクシュアル、日本と欧米の政治・文化・言葉・思想・哲学・美学の違い、日本人の欧米に対する敵対心、劣等感、憧れなど、そこには人間と人間を隔てる、ありとあらゆる壁が高く立ちはだかっていた。大島監督は、冒頭からそれらの壁を描き続け、日本軍も捕虜たちも、それを観ている観客もが、完全に煮詰まった瞬間、セリアスという存在に、それらの壁を風のように軽やかに越えさせるのである(詳細は後述)。その役をこなせるのは、カリスマ性とスター性にあふれるデヴィッド・ボウイの他にいなかっただろう。それこそ、「ラスト・エンペラー」(1987)や「シェルタリング・スカイ」(1990)などで有名なベルトルッチ監督に「映画史上最も美しいキスシーン」と言わせしめた、坂本龍一とデヴィッド・ボウイの抱擁と頰にキスするシーンである。全てをこの瞬間(1分間)に収束させるために、戦争に翻弄される人間の残虐性、暴力、死、無理解、衝突が全編にわたって容赦無く描かれているのである。という訳で、表面的な印象から、この映画をただの反日映画や同性愛映画だと貶めるのは、いささか性急である。
・カネモトとデヨンの関係
冒頭のカネモトとデヨンの一件は、わりと直接的且つ説明的な演出である。収容所内の日常風景における相剋・軋轢・残酷を、氷山の一角として紹介すると同時に、日本軍・捕虜たちにとって、同性愛がいかにタブーであるかを印象付け、また後の展開を暗喩する伏線的な導入部分である。レイプ事件とされているが、デヨンが日本軍に被害を訴え出たというより、(デヨンが下着姿であることから)行為中に見つかってしまったような風情である。ハラ軍曹は「前代未聞の不祥事」だと騒ぎ、カネモトには自決を要求するほど激しく弾劾している。
その時はヨノイ大尉が通りかかり、カネモトの処分はうやむやになるのだが、中盤でヨノイ大尉は改めてカネモトに切腹の刑を申し渡す。カネモトが切腹をする時、当の被害者であるはずのデヨンはひざまずき、カネモトへ手を伸ばすようにして喚き、舌を噛みちぎる。カネモトもデヨンの方を見つめながら、「アイゴー」と叫んで死んで行くのである。デヨンはその後一切姿を現さないことから、死亡と推定。
デヨンはそれまでも悪夢を見たり、ヨノイの剣道の練習の雄叫びに慄き、青い顔をして飛び起きるなど、だいぶ精神的に弱っていたため、目の前での切腹に、ショックを受けて舌を噛んでしまったとも考えられる。しかし、カネモトとデヨンは相思相愛だったのではないか、という説もある。
冒頭で事件について説明するデヨンは、カネモトのことを「三日前から毎晩、傷の手当てをしてくれて、とても優しかった。それが突然・・・」と話している。そのデヨンの佇まいも、女の子のように可愛らしすぎるのだが。この一件、デヨンがカネモトを誘った可能性も考えられる。しかし、この集団の中では、とても同性愛者だとは認めるわけにいかず、自分のせいでカネモトが死んでいく、という罪の意識から舌を噛んで贖ったとも考えられるのだ。
・ヨノイとセリアスの関係
軍律裁判でのヨノイの様子から、セリアスに一目惚れしたのは明らかだろう。論告求刑の間も、他の審判たちは検察官を見ているのに、ヨノイはセリアスにポーッと見とれたまま。ヨノイは尋問したいと申し出て、なぜか席を立ってセリアスに近づいたり、シェイクスピアの一節を諳んじてインテリ感をアピールしてみたり、虐待の傷跡を見せるためにシャツを脱いだセリアスに動揺したり、(死刑ではなく)捕虜として捕らえることを進言したり、ヨノイはすっかりセリアスの虜となってしまったのである。
空砲での死刑執行も、後ろからヨノイが現れることから、ヨノイが仕組んだことであるのは間違いない。空砲で行うくらいなら、最初から銃殺宣告などしなければいいものを、ヨノイには何か思惑があったのだろう。例えば、死ぬ間際でセリアスがどのように振る舞うかによって(隠し持っていた情報があればそれと引き換えに命乞いをするなど)、セリアスの法廷での陳述が真実であるか否か確認することを、審判長より死刑を覆すための条件とされていたのかも知れない。
48時間の絶食命令を破ったため、独房に入れられていたセリアスを、実は毎晩のように様子を見に行っていたヨノイ。しかも、砂利の上に寝させるのが不憫だと、絨毯を差し入れていたりする。ヨノイの部下、ヤシマが刺客として忍び込んだ時、セリアスはその絨毯のおかげで命拾いし、思わず絨毯にキスをする。そして、それを丸めて小脇に抱えて脱走する。
無線ラジオを持ち込んだ罪を着せられ、捕縛されていたローレンスを救い出し、歩けない彼を肩にかつぐのだが、それでもセリアスは丸めた絨毯を離さず、「ヨノイにペルシャ絨毯を貰ったんだ」などとかなり場違いな「冗談」を言う。それが高価なペルシャ絨毯であるわけもなく、ただの敷物にすぎないはずである。もしくは、ローレンスの「地下鉄」のジョークの応酬として、「千夜一夜物語」の「空飛ぶ絨毯」でも持ち出したのだろうか。どちらにせよ、それを肌身離さず持って逃げることを、ローレンスに言い訳するための、照れ隠しの台詞ではなかったか。
その脱走の途中、奇しくもヨノイ本人に見つかってしまうのだが、セリアスはナイフを構えるも、ヨノイの日本刀に視線をやると、あっさりナイフを捨ててしまう。日本刀とナイフでは勝負にならないと判断したのかもしれないが、ヨノイには自分を斬れないという勝算はあったのだろう。その後、ハラ軍曹が現れ「撃ちます」と拳銃を構えるが、無言でその前に立ちはだかるヨノイ。ローレンスが「ヨノイは君を気に入っているようだね」とセリアスに言うと、セリアスは顔を伏せて何も言わない。
二人は再び独房に戻されるが、クリスマスの夜、酒に酔ってサンタクロースを気取ったハラによって、二人は釈放される。それはヨノイの許可も得ないままの、ハラの独断であった。実はハラはその日、無線ラジオを持ち込んだ真犯人を捕まえていたのである。ハラは内心、歓喜したことだろう。ハラはローレンスを助けたかったし、ヨノイがセリアスを殺したくないことを、ハラは解っていたからこそ、酒に酔った勢いを装って、クリスマスプレゼントにかこつけて、二人を釈放したのである。無断で二人を釈放したことについて、ヨノイはハラに自室謹慎を言い渡されるが、お咎めはそれだけであったことからも、ヨノイはセリアスの釈放には胸をなでおろしていたに違いない。
しかしその直後、ヒックスリー捕虜長が余計なことを言い出すのである。「セリアスを、私の後任とする計画はどうなったのか」と聞かれ、ヨノイは激昂する。問題ばかり起こし、独房に入れられっぱなしのセリアスに、今更そんな大役を授けるわけがない。つまりこれは、ヨノイの誤算を指摘した「嫌味」のように取れるのである。やはり捕虜長にふさわしいのは自分しかいないだろう、と言わんばかりのヒックスリーは、ヨノイの要求する情報提供を頑として拒む。逆上し半狂乱のヨノイは、捕虜全員を集合させよと命令を下す。
(ちなみに、病人たちが建物から出てくるシーンはホドロフスキー監督「エルトポ」(1970)のラストシーンのオマージュだろうか。。。)
捕虜全員の前で、ヒックスリーを斬り捨てようとヨノイが日本刀を掲げた瞬間、セリアスが整列の後方からゆっくりと歩み出てくる。誰もが凍ったように静止し、緊張感の走る中、セリアスだけがまるで散歩でもするような優雅さで歩き出す。日本兵も捕虜たちも唖然として、見守るだけである。セリアスは、ヨノイとヒックスリーの間に立ちはだかり、処刑の邪魔をしてみせるが、この時はまだヨノイにキスしてやろうだなんて、考えていなかっただろう。しかし、ヨノイに突き飛ばされ、その反撃ともいうべき次の一手は、おそらく反射的に、抱擁とキスなのであった。この部分の音楽の盛り上がりがまた素晴らしい。
果たしてこれは、ヨノイの気持ちを逆手に取った、ただの侮辱行為だったのではないのか。公衆の面前でヨノイを侮辱して恥をかかせ、人格を崩壊させて戦意を喪失させる魂胆があったのではないか、とする説もある。しかし、私はセリアスが、ただ人を侮辱するためだけに自分の命をかけるほど、浅はかで軽率な人間ではないと考える。あくまで愛で暴力を制止させる、という陳腐で月並みで、正当かつ正統の動機だろう。
あの抱擁とキスのシーンがショッキングなのは、非人間的な状況の中で、とても人間的な現象を目撃するからだろう。冒頭でも書いた通り、この捕虜収容所には、征服者と捕虜、勝者と敗者、強者と弱者、武士道と騎士道、神道・皇道とキリスト教、軍国主義と民主主義、愛と暴力、国・集団と個人、ヘテロセクシュアルとホモセクシュアル、日本と欧米の政治・文化・言葉・思想・哲学・美学の違い、日本人の欧米に対する敵対心、劣等感、憧れなど、人間と人間を隔てる、越えられない壁がいくつも高く立ちはだかっていた。しかし、セリアスはそれらの壁を、風のように蝶のように軽やかに、いとも簡単に乗り越えてみせたのである。それは、日本兵及び捕虜たちをがんじがらめに縛っている諸々の観念から、皆を一瞬にして解き放ち、すなわち戦争を忘れさせ、本来の人間らしい人間性と、本来の人間同士の対等な関係性を取り戻させる、魔法のような、奇跡の「瞬間」なのである。それまで(1時間42分)描かれてきた容赦の無い暴力や死や衝突は、全てこのクライマックス(1分)に収束させるための壮大な序曲に過ぎない、と言っても過言ではないだろう。
過去に弟のイジメを止められなかったから、今度こそ弱者に対する虐待を止めさせるつもりだった、という説があるが、ユダ的な不義・背信行為・裏切りに対する、キリスト的な自己犠牲・他者への愛・償いを描いているという見方もできるだろう。また、セリアスは学校でのイジメという集団的狂気の恐ろしさを知っていたからこそ、日本軍の集団的狂気の心理メカニズムも理解していたのかも知れない。よって個の力で集団的呪縛を解き、個に立ち戻らせ目を醒まさせようとしたのかも知れない。それに加えて、障害のある我が弟の存在を恥じた、自分の虚栄心と器の小ささ、姑息さを悔いていたからこそ、逃げも隠れもしない白昼堂々たる愛の告白だった、と考えたい。この抱擁とキスによって、敵味方を超えると同時に、(冒頭から提示されていた)セクシュアリティの問題も含め、すべての違いをも乗り超えられると証明してみせたのである。
また、セリアスには弟に対する懺悔(個人に対する罪)、ヨノイには二・二六事件に関する後悔(集団に対する罪)があったため、傷を負った心と心が呼応した、という説もあるが、それくらいの傷は誰もが持っているものだし、そう考えるのは陳腐で短絡的で感傷的過ぎやしないだろうか。この二人が惹かれあったのは理屈ではなく、もっと動物的な勘であり、同類(美貌の異端)としての共鳴・同調(シンクロ)ではなかったか。二人とも容姿端麗で、周りより抜きん出て優秀で、生まれながらのアルファ・メールで、いつだって掃き溜めに鶴のような存在だったとしたら、それこそ、お互いドッペルゲンガーを見るような感覚だったとは考えられないだろうか。こんなにも色気を放つ美しい男性二人が、敵同士で男性同士という禁忌の相手であるからこそ、生(エロス)と死(タナトス)の狭間の極限状況下(連続性吊り橋効果的な)において、惹かれ合ってもおかしくないように思えるのだ。そもそも、ローレンスでさえ思い出の女性がいるのに、セリアスは女性に興味がなさそうな発言をしている。(私は未読だが、原作ではもっと露骨に同性愛の面が描かれているらしいので、原作を読めば謎は解明されるかも知れない)。
しかし、見ればみるほど、これはセリアスの愛の告白だったように見えてくるから不思議である。何度もこの映画を見た結果、私もついに、セリアスもヨノイには相当に想いを寄せていた、と考えるに至ってしまった。セリアスのアップから、歩いてヨノイの前に立ち、ヨノイがよろめき倒れるまでのシークエンス(1:42:43 〜 1:43:43くらいまで)は何度見ても美しい。崩折れるヨノイの表情が秀逸で、いつも吹き出してしまうのだが、大好きすぎるシーンである。
ちなみに、キスの後によろめくヨノイを受け止めて、セリアスに殴りにかかっていくのは若き日の三上博史である。たった数秒のカットだが、カメラの位置を把握した動き、間のため方やタイミングといい、表情といい、素晴らしい演技センスである。恐れ多くも、デヴィッド・ボウイを二発も殴っている。
・ハラ軍曹とローレンスの関係
ハラ軍曹とローレンス中佐の関係は、ヨノイとセリアスの関係と比べると、ずっと普遍的な友情として描かれている。敵味方と分かれていても、性格が正反対だとしても、お互いに対する理解と尊敬の念があり、お互いの唯一の理解者となっている。
ラストシーンでハラ軍曹は剃髪し、数珠のネックレスを下げているが、ハラは突然に仏教に目覚めた訳ではない。映画の序盤でローレンスが昼寝をするハラを起こす場面でも、ハラは同じ数珠のネックレスをしている。また、ヤシマの葬式の際にも、朗々とお経をあげていることからも、信心深いバックグラウンドがありそうだ。
ラストシーンの「メリークリスマス、ミスターローレンス」という台詞には、ハラが立場の逆転したローレンスに対し、「あの時は私がお前を救ったのだから、今度はお前が私を救ってくれ」と言外に乞うている、とする説もある。捕虜になるくらいなら自決すると言っていたハラが、終戦後に捕縛されても、敵国の言語を学習し、生きながらえている矛盾から、生きることに未練を持ち始めたようにも見えなくもない。しかし「メリークリスマス、ミスターローレンス」という台詞はむしろ、さよならの代わりの合言葉のようなものだったのではないか、と私は考える。「ローレンスよ、私を忘れないでくれ」とも聞こえるのである。あの純粋な表情に、「今度はお前が私を救ってくれ」などという、今さら往生際の悪い見苦しい腹づもりはなかったと信じたい。
この映画は、ビートたけしのアップに始まり、ビートたけしのアップで終わる。あるいは、ハラ軍曹とローレンスの屈折したリエゾンに始まり、ハラ軍曹とローレンスの真の友情で幕を閉じる。
史実として、日本軍がオランダ領のジャワ島を占領したのは、1942年3月のことである(映画の中でも、軍法会議の場において、蘭印軍の司令部が3月に攻略されたことをセリアスが語っている)。1941年12月の真珠湾攻撃、翌年1月に始まった日本軍による蘭印作戦(石油資源の獲得)は、破竹の勢いで遂行され、3月には最終目的であるジャワ島を制し終了した。アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアからなる連合軍が全面降伏し、8万人以上が捕虜となった。日本軍が最も追い風を受けていた時期である。
ローレンスが捕虜として収容されたのが、ジャワ島占領直後の3月だったと仮定しても、その年の12月末(正確には、ローレンスとセリアスが釈放されたクリスマスの三日後)には、ハラはハルカ島での飛行場建設の指揮官として、レバクセンバタを去ってしまうのだから、二人にとっては9ヶ月間の交流であった。その9ヶ月の間、ローレンスはハラによる理不尽な暴力・暴言に耐え、また他の捕虜に対する不当な扱いを目撃せねばならず、もういい加減うんざりしていただろう。そんな酷い目に遭っているのに、ローレンスはなぜハラに会う気になったのだろう、という感想もちらほら見かけた。
二人は4年後に再会するが、会わずにいた48ヶ月間は、レバクセンバタで過ごした9ヶ月間より、はるかに長くて辛かったはずである。1942年の3月から12月はまだ、日本軍の戦局はそこまで悪化しておらず、捕虜の食糧事情も、看守兵の心理状態も、そこまで悪くなかっただろうと想像されるからである。同年6月のミッドウェー作戦の失敗により、日本軍の形勢は一気に悪くなるが、これは戦争1年目のことであり、日本はその後3年間も戦ったのであるから、まだまだ序盤だったのである。
それでも、二人が再会を果たして話すのは、セリアスの一件、クリスマスの一件という、生涯忘れることのない、レバクセンバタでの思い出なのである。日本軍の勢いが強かった時期であり、捕虜たちもどこか安穏として過ごしていた、そんな時期だったからこそ、逆に耐えられる思い出となっているのかも知れない。ハラは上官も恐れず、「ローレンスを犯人としたのは、ハラの判断の誤りです」と正義を貫くことのできる男でもある。そんなハラは命の恩人でもあり、ローレンスはギリギリのところで、ハラを許し、尊敬さえしているのだ。
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この脚本は大島監督とポール・メイヤーズバーグというイギリス人の脚本家が手がけている。メイヤーズバーグは、ボウイが出演した「地球に落ちて来た男」(1977)、トム・クルーズの「ラスト・サムライ」(2003)などの脚本を担当した人物である。英語の台詞部分には、英国人らしい皮肉や憎まれ口の数々が、ここそこに散りばめられている。日本語に訳しても面白くない類のものであるが、セリアスとローレンスは息をするように皮肉を言っていて、どんな極限状況にあっても皮肉めいた会話をしてしまう、イギリス人の生態が垣間見れて実に面白い。私の手元にあるのは海外版なので、日本語字幕がどのように訳されているのか気になるところである。
空砲での処刑のシーンで、兵士がセリアスを引き摺ろうとした時には、
“I don’t need any help. I practiced walking for years.”(何年も歩く練習はしてきたんだから、一人で歩けるし!軽く逆ギレ)
セリアスがローレンスを救出、肩に担ぐシーンでは、
“We’re going walkies.”(犬の散歩に行くぜ、くらいのニュアンス)
“The tube line doesn’t come this far.”(地下鉄はここまで来ないよ、歩けねぇし、的なニュアンス)
とても聞き取りにくいが、その後ローレンスは
“Why are you carrying a carpet?”っと突っ込んでいる(多分)。
脱走の際、ヨノイに見つかってしまった時には、
“I presume you’ve come for your carpet.” (見つかっちまったか、へっ絨毯返してやるよ、くらいのニュアンス。ヨノイに貰った絨毯を後生大事に抱えていたのを見られ、バツが悪くてあえて絨毯のことを口にしたのかも。)
ヤシマの葬式にて、ローレンスがヨノイに反発するシーンで、
“You’re not a Gilbert and Sullivan fan, are you?”(日本人風刺喜劇の真似をして、そんな馬鹿げたことを言ってるのかい、といったニュアンス)
ハラ軍曹に釈放される前に、兵士たちが独房に迎えに来た際には、
“Here comes a milk man.” (深夜あるいは早朝であることから、牛乳屋さんが来たぜ )
“Two pints!”(1リットルもらおうか)
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当時のたけしと坂本龍一が、ラジオ番組で撮影秘話などを話している動画が見られる。冗談なのか照れなのか解らないが、とんでもない感想で笑わせてくれる。まだ30代そこそこだった二人が「分からない」というのも仕方ないのかも知れないが。この映画出演がきっかけで、坂本龍一は映画音楽のジャンルで、またビートたけしは俳優・監督として活躍することとなるとは、誰が予想しただろう。
たけ「分からない映画だね」
坂本「難しい。僕、自分でやってて分かんないんだもん」
たけ「娯楽にはならないよね。外国向けの日本の精神文化」
坂本「アート、アート」
たけ「一大オカマ大会!」