「煉獄エロイカ」、「エロス+虐殺」、「樹氷のよろめき」など、映画の題名のセンスとアヴァンギャルドな映像美においては、日本映画史上において一、二を争うのではないかと思われる吉田喜重監督だが、脚本は観念的で小難しい台詞が多く、ビジュアルも非常に実験的で非商業的で、加えて上映時間が長いため、とにかく吉田作品はつまらない、と言う声をよく聞く。しかし海外ではカルト・フィルムとして名を馳せていて、どの作品も割とたやすく入手可能であり、特にATG時代の作品は人気があるようだ。
本作では、岡田茉莉子、浅丘ルリ子、有馬稲子という当時の三大女優を中心に、三國連太郎や太地喜和子、月丘夢路などの演技派俳優たちが脇をかためていて、このメンバーで「告白的に女優を論じる」というからには、一体どんなスキャンダラスでゴージャスな世界が繰り広げられるのかと思いきや、これは決して華々しく輝かしい芸能界の話などではない。業の深い女たちのドロドロのメロドラマであり、それぞれ個人の内省的葛藤の暴露である。ややこしくて面倒くさくて、わがままで自分中心的で、幼稚で未熟、独りよがりで自己陶酔型、気まぐれで嘘つき、虚栄心とナルシシズムと自己顕示欲が見え隠れする、一筋縄ではいかない存在としての女性像を体現する女優たちに焦点をあてている。
三名の女優が共演する予定の映画の、クランクイン二日前から撮影初日までの短い間に、各々の隠された秘密に肉薄していく過程を、同時進行で追っていくオムニバス形式の作品である。設定では過去にライバル関係だった三大女優たちが、一緒に新しい映画撮影に臨む直前というのは、気持ちの昂ぶる魔の時間なのかも知れない。三名の秘密とは、揃いも揃って男性に関連する問題なのだが、その問題自体がそう重要なのではなく、彼女たちが一体なぜそういった問題を起こすに至るのか、というもっと根深い原因に迫っているのが、この映画の面白いところだと思う。長たらしい台詞回しに気を取られていると、単なる「女優たちと男の話」、として片付けてしまいそうになるが、実際は「それぞれが、女優であるがゆえに、一番近しい人間との健全な親密関係を構築できないが故に、その危機がそれぞれの男性問題として表面化している話」なのである。ラストで三人の女優は決して幸せそうな表情をしていないが、激動の二日間の中で、それぞれが根本的な問題に取り組まざるを得なくなり、結果的に、全員が晴れやかな気持ちでクランクインに臨んだはずである。つまり、それぞれが新しい自分を発見するという、実は壮大なハッピーエンドの映画なのである(三国さんだけは本当に可哀想だが)。
浅丘ルリ子(海堂あき役)の場合:
浅丘ルリ子は高校時代からの親友、赤座美代子に付き人をさせているが、二人には暗い秘密の過去がある。高校時代の夏、二人がクラスの担任教師の家に赴いた際、赤座が教師にクロロフォルムを嗅がされ、暴行されるという「わいせつ事件」が起きたのである。ルリ子の密告で事件は明るみに出て、教師は更迭、赤座は興味の視線にさらされてしまった。変態教師が駆逐されたという功績において、ルリ子の密告は正当化されたのかも知れないが、赤座は暴行を黙って見ていただけのルリ子を、そして自分の名前を晒したルリ子を決して許さなかった。
しかし秘密を共有することにより、二人はますます離れることができなくなった。ルリ子は赤座に対する償いの行為として、赤座に仕事と住居を与え、二人は裕福な暮らしを送っている。しかし赤座は、ひそやかにルリ子に対する恨みを募らせ、ルリ子の尊敬する映画監督と寝ることで、ルリ子に復讐を加えようと考えていた。
しかし実際は、赤座はクロロフォルムで眠らされただけで、襲われたのはルリ子の方なのであった。先生はルリ子を愛していたのであり、邪魔な赤座を連れて来たことを怒ってさえいた。逃げることもできず、恐ろしさに耐えきれなくなったルリ子は、自分から先生の手にあるクロロフォルムを嗅ぎ、気を失ったのである。つまり、自分から襲われることを選んだのである。事件、あるいはドラマの主人公になることを選ぶというのは、とても女優的な衝動ではないだろうか。
また、確かに被害者としての純粋な苦悩はあったのかも知れないが、選ばれたのは赤座ではなく本当は自分なのだ、あの悲劇のヒロインは実は私なのだ、という屈折した優越感もあったのではないだろうか。このわいせつ事件の影響で、ルリ子は男性不信となっているが、第一義的な問題は、家族にも親友にも重大な真実を隠し通し、偽りの純潔という体裁を保ち、赤座の思い込みに付き合うフリをせねばならない、そんな抑圧された心理である。真実を隠して生きていることから、他人との距離感がうまく計れないのである。ラストのシャワーシーンを見るかぎり、男性不信が突然治ったというより、何もかも洗いざらいぶちまけて、やっと他人とまともに向き合えるようになった、だけなのである。ちなみに原田は、ラストの撮影現場では付き人のようにルリ子の側に立っている。また、インタビューで結婚について聞かれたルリ子が明るく「結婚するでしょう」と答えるのも、壮絶なカタルシスの直後に、運命のように現れた原田のおかげかも知れない。
また、赤座が映画監督と寝ていることを知り、ルリ子は「あれは私であるべきだった」と憤るが、これはドラマの主人公的な役割を横取りされてしまったからだろう。高名な映画監督と寝ることも、わいせつ教師に襲われることも、ルリ子にとっては同等に「ドラマ」でしかないのかも知れない。
有馬稲子(伊作万紀子役)の場合:
有馬稲子の場合は一見、義理の父親との心中という衝撃的な近親相姦の問題に見受けられるが、実際は、母親との異常な愛着システムが起因であり、父親との件はその派生的問題の一つに過ぎない。
友人の久保まづるかを連れ、雪国を旅するシーンで、稲子は「私の母が女優であったことをご存知?戦前の話よ、名も無い舞台女優だった」と話しているが、自分自身が女優という職業を選んだのもそのせいだろう。この母娘の問題は、共依存でも過干渉でも毒親でもない、いわゆるエンメッシュメント(母子癒着)と呼ばれる状態ではないだろうか、と私は考える。まづるかが電話をかければ、稲子は「どこへかけてたの?私の家じゃないでしょうね、母には内緒で来たのよ」とうろたえ、帰宅し母親に「遅かったのね、食事は?」と聞かれれば、「いらないわ、済ませて来たから」と素っ気なく返答する。そんな娘は、過去に母親の結婚相手と心中事件を起こし、相手を死なせてしまった(と稲子は思い込んでいる)というのに、まだ母親と同居し面倒を見てもらっているのである。
また「自殺狂」と呼ばれるほど、自殺未遂を自作自演してきた実績も、母親の関心を得るためであり、母親が心配して稲子の恋人に相談をもちかけるほどには、稲子の無意識の挑発は成功している。稲子が、父親が実は生きていたことを知り、母親を罵るシーンでは、「今、私にはハッキリ分かったわ。すべてがお母さんに縛られてきたんだわ。私の人生のすべてが!」と叫ぶが、この大喧嘩のあとも二人は以前通り、一緒に暮らしている。きっと今までもそういった喧嘩はたくさんあったのだろう。
また稲子は、岡田茉莉子と音楽家の男を取り合いした過去について、それは純然たる失恋だったと述懐している。音楽家の男が「これまで彼女を愛してるという感情が僕にはなかった。そう思いたくもなかったし、そう思わせない何かが彼女の方にもあった。多分、彼女のお母さんが原因なんだと思う。彼女の背後にはいつもあのお母さんの影がある」と岡田茉莉子に告白するのを立ち聞きしてしまったのだった。母親との問題は、もうずっと昔から引きずるライフワークなのである。
発達心理学における「愛着システム」とは、母子関係においてその基礎が作られ、成人してからも社会的適応性において重要な役割を持つ、他人との距離の測り方の指標である。稲子が母親に「あの人はお父さんとは呼べないわ。お母さんの恋人、それも幾人かいた中の一人。その人を私が恋して何がいけないの」と言い放つ場面があるが、女優を目指していた美しい母親が、満州でシングルマザーとして生き抜くには、男性の力も必要だった可能性が高く、生まれたばかりの稲子にとっては、そんな環境下で不安定な愛着システムが出来上がってしまったのかも知れない。
しかし、稲子にはカラサワという恋人ができ、それは稲子のすべてを受け入れてくれる稀有な存在である。振りほどいても振りほどいても、諦めずに愛し続けてくれる男である。久保まづるかを巻き込んだ、彼の愛を試す大芝居の策略さえもお見通しで、それでも尚、愛してくれる男なのである。この男のおかげで、三人のうちで最も痛々しかった稲子が、一番救われるのではないかという希望的観測を持てるエンディングとなっている。
岡田茉莉子(一森笙子役)の場合:
岡田茉莉子に関しては、マネージャーの三國連太郎があまたの男の存在を仄めかすため、男を取っ替え引っ替えするプレイガールぶりが問題のように見えてくる。しかし、彼女の根本的な問題は、17年間も運命共同体として並走してきた、マネージャーとの齟齬である。本当の自分を見ようとせず、自分を女優(商品)としてしか愛さない三国に対する造反なのである。
二人のやりとりは、初めからチグハグである。茉利子の気まぐれな言葉の連想ゲームにも、三国の答えは見事に外れているし、思い出のデビュー時のエピソードに対しても、二人の認識は真逆なのである。「あなたって人はあの時から今日まで、あたしのことについては何も知らないのね」と茉利子は残念そうに呟く。また夢分析の再現劇の際には「あなたはいつも的外れね。勘の鈍いひと」とも呆れたように言っている。
茉利子の音楽家との結婚に対しても、三国が「ライバルに負けたくないばっかりに結婚した」と皮肉を言い、茉利子が「そのように仕組んだのは、この人。私の一生を自由にするために自分の思い通りに操れるあの人を(中略)・・・利用したんだわ」と言い返せば、「それは君にも言えるよ」と三国。確かなのは、茉利子が音楽家を愛していた訳ではなかったが、茉利子にも三国にも有益な結婚であったということだ。ある意味、二人は共犯である。
茉利子が睡眠療法を受けるクリニックにて、三国は「よしてくれ!女優の内面なんか探り出してどうしようってんだ」、「彼女はスターというれっきとした商品なんだ。それを君たちは破壊する気か。女優の内面なんて心配する必要はないんだ。もしそんなことがあったとしても、女優であれば、あくまでも外に現れたものだけが真実なんだ」と啖呵を切っている。しかし、本作で描かれる二日間にわたり、茉利子は懸命に夢の解析を行い、自分の内面をつまびらかにしようと努めているが、三国はあからさまに無関心で、分かろうともしないのである。「あぁ、もう真夜中だ。夢の分析はもういいだろう」などとあくびをして見せる。
「僕は彼女のプライバシーに興味がない」という三国だが、茉利子の男遍歴については「最初は俳優、次はサッカー選手、売り出しの小説家、スキーの選手、パイロット、まだまだある!君は男たちの名前を全部憶えてはいないだろうが、僕は正確にその男たちの名前を言えるんだ」と苦渋の表情で叫ぶのである。また、茉利子の夢の先に「その中に本当の君がいる。僕を絶対必要としない君が」と激しく糾弾する。これは女優としての茉利子に愛されることのない三国の嫉妬だろうか。しかし、三国もまた茉利子を女優としてしか愛していないのだった。
ラストで茉利子は、クリニックの医師との肉体関係を清算するが、その理由を「あなたとのことは、誰も知らない私だけの秘密。それがなんだか、あの南川のためだったってことに気づいたのよ。おかしいわね。本当にあなたが好きだったのか、自分のマネージャーも知らない秘密を作ろうとしてあなたと会っていたのか、私にも区別できなくなってしまった」と語る。そして医師の台詞から、三国とのマネージャー契約も清算したことがわかる。今までの男遍歴がすべて(結婚を含め)、三国に対するひそかな謀反だったとすれば、それはとても悲しい男女の行き違いである。
もう一度チャンスをくれとすがる三国に、茉利子は、「あなたが私を抱けなかったのは、あなたが私でない別のものを夢見たからなんだわ」と哀しげに言う。他の男たちだって、おそらく女優の茉利子に惚れて別のものを夢見ていたに違いない。しかしせめて三国だけは、本当の茉利子を見なければならなかったのだ。ここに二人の大きな齟齬があるのだった。
鏡について:
人間は相応に仮面をかぶり、社会的文脈や関係性の中で適応しながら生活している。しかし、女優という職業においては、その仮面、あるいは化粧という仮面を、脱ぐことさえ許されない。仮面自体が日常の顔になってしまい、鏡に映る自分の像も、「女優である自分」であり、日常生活の中でどこからどこまでを演じているのか、もう自分にさえ分からない。と、いうことがテーマなのかは分からないが、この作品では多くの鏡が登場する。
被写体と像が同じフレームに収められているシーンでは、もう一人の分裂した自分を生み出して、悲哀や迷いなどのドラマ性を倍増させる効果もあるように思う。一方、鏡を通して見る女優たちは一層現実感が薄く、現実と虚構の狭間に生きる存在、直接触れることのできない遠い存在、決して本心を曝すことのない虚偽の存在、としての印象を与える。
構図について:
各カットでは、ランプ、柱、壁、ボールなどの物体を大きくアップに写し、意図的に邪魔なものに遮られた中で、カメラのフォーカスは女優たちに絞られているが、女優たちは不自然なほど小さく映っている。
タイトルの「女優」と「告白」という言葉から、パパラッチ的な発想を持って、隠し撮りを意識しているのでは、という説もあるが、隠し撮りといえるほどの整合性は皆無で、ただ、構図のバランスをわざと大幅に崩し、不均衡で不調和の絵を見せることで、観客には不安や不穏を感じさせる効果を狙ったのではないか、とも考えられる。
また、フレームの使い方が明らかに他とは違う、喜重監督らしい構図が連発されて面白い。