マンハッタンというと、高層ビルが林立する無機質なコンクリート・ジャングルのイメージだが、その中央には3.4k㎡にわたる緑豊かな公園「セントラル・パーク」がある。地元のニューヨーカーたちが集うオアシスであり、世界的に有名な観光名所でもある。
その公園の南東の角にはアップル・ストア、そしてルイ・ヴィトン、ティファニー、グッチ、アルマーニなどの高級ブランドのフラグシップ・ストアが、五番街に沿って立ち並ぶのだが、ちょうどアップル・ストアの真向かいに、由緒ある最高級ホテル「プラザ・ホテル」が建っている。
1985年夏、このプラザ・ホテルにて、極秘の会合が行われていた。米、日、英、仏、西独(G5)の財務担当者ら(日本からは竹下登大蔵大臣)は秘密裏に集合し、上がりすぎたドルの価値を下落させる(要は「円高ドル安」を図る)ため、各国が協力して修正策を講じることを決めた。いわゆる「プラザ合意」である。
結果、あっという間にドルは下がり円高となった。
しかし今度はドルが下がりすぎて、1987年には「ブラック・マンデー」と言われる世界株価暴落が起こる。世界経済が揺らぐ中、日本企業を支えるため、日本銀行は「金融緩和」を導入、つまり金利を引き下げて企業がお金を借りやすくした。
結果、あっという間にバブル景気となった。
大消費ブームの日本は、海外の企業や不動産、絵画を次々と買い漁り、国内ではリゾート地やゴルフ場を次々と開発した。また、本業で真面目にコツコツ稼ぐより、土地や金融資産(株や国債など)を運用して(転がして)儲ける「財テク」が流行った。
しかし90年代に入り、資産価値の急騰によって生じた国民間の格差をなくすため、また加熱する土地への投資や価格を正常化するため、日本銀行は色々と規制を始める。
結果、あっという間にバブルは弾けてしまった。(経済学的にはもっと複雑なメカニズムだったのだと思うが。)
この映画、「ヌードの夜」(1993)は、そんなバブルが弾けた直後に製作された映画である。映画に写る街や人には、祭りの後のような、熱気の名残のような空気感が、うっすらと漂っている。廃ビルで代行屋を営む主人公が、かつては高学歴の証券マンだったというのも、バブル崩壊後を考えれば自然な設定だ。「会社を辞めて、それまでの償いに何でも役に立ちます代行屋を始めた」というセリフが出てくる。証券マンとして関わった取引相手に、地価・株の暴落に伴う大損を招き、立ち行かなくなった企業や路頭に迷う個人があったのかもしれない。根津甚八が演じるヤクザの閑散とした高級クラブやサラ金地獄、狂ったような債権者も、バブル崩壊の落とし子と言えるだろう。
監督は「GONIN」シリーズの石井隆。暴力シーンも多いが、表社会から身を引いた人々が抱える闇を、とても繊細に描く監督だと思う。「GONIN」(1995)の二年前に撮られた「ヌードの夜」は、大人の男女たちが、ゆったりしたジャズ、サックスの音色、廃ビル、雨、ネオン・ライトなどに彩られながら、湿った艶めかしいストーリーを織りなしていく。脚本も素敵で、「住めば都、女たちの夢の跡」などのセリフや、バラやひまわりを使ったゴージャスなシーンも(バブルっぽくて)印象に残る。また、同年に発表された、北野武監督「ソナチネ」(1993)を彷彿とさせる青みがかった映像だが、「ソナチネ」が南国の昼の光景であれば、本作は雨の夜の情景ばかりで対照的だ。
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プロローグでは主人公を演じる竹中直人は、代行屋の仕事に勤しんでいる。同じ頃、閑散としたクラブに余貴美子が現れ、覚せい剤の注射を打っている根津甚八に、現金の入った封筒を渡す。そして無表情のまま、下着を下ろし脚を広げる。彼女がクラブの奥にいる新顔の椎名桔平に気づくと、「俺より凶暴だぜ」と根津が笑う。
廃ビル内にある代行屋の事務所に、余貴美子が訪ねてくる。「東京を案内して欲しい」との依頼を受け、初めは気乗りしない竹中だったが、二人は水族館や遊園地などデートのような観光をする。酔った余貴美子をホテルへ送り届けた後、代行屋として預かっている子犬に「明日はディズニーランドだ、綺麗なひとなんだ」と語りかけながら夜を過ごす竹中であった。
しかし同じ頃、余貴美子はホテルに根津甚八を呼び出し、別れ話のもつれの末に相手を刺し殺してしまうのである。翌日彼女はもう観光は必要ない、ホテルの部屋の荷物を指定の宛先に送付してくれと頼む。竹中がホテルの部屋に着くと、そこには根津甚八の死体が転がっていた。女にハメられたことに気づき、衝撃を受ける竹中。
いつも思うのだが、女に振り回される男は、本当に純粋に疑いもなく罠にはまっていて、かわいそうな程である。一方男に振り回される女は、例えば妻と別れない男や暴力をふるう男など、本当はわかっているのに、自分自身で確信犯的にその道を選んでいることが多いと思う。男が結婚詐欺師などの犯罪者であれば別だが、いつだって女性は一枚上手なのかもしれない。
竹中はスーツケースに死体を詰め運び出し、女が借りていたレンタカーを手がかりにその正体を探り始める。そんな中、代行屋の事務所に根津甚八の舎弟、椎名桔平がやってくる。消えた兄貴分の行方を知らないと言い張る竹中に、殴る蹴るの暴行を加える桔平だが、繋がれている子犬に気づき「お前も拾われたのか」と優しく撫でる。おそらく桔平は根津甚八に、野良犬のように拾われてきたのだろう。冒頭で、桔平が女に興味がないというくだりがあるが、根津甚八に対する心情は恋心ではなく、拾ってもらった恩義からくる敬愛、心服だろう。
その頃余貴美子は、いかにもバブルで潤っている社会人たちのパーティに参加している。広瀬というサラリーマン風の男の婚約者として、その友人らに紹介される。しかしそのやりとりには、広瀬が案外食わせ者である暗示が散りばめられている。この広瀬と結婚がしたいがために、根津甚八との関係を清算しようと、彼女は殺人まで犯したのだった。
余貴美子の居所を突き止めた竹中は、死体の入ったスーツケースを余貴美子のアパートまで返しに行く。後日、余貴美子のアパートでスーツケースを発見した桔平は彼女を袋叩きにするのだが、ちょうどその時、婚約者の広瀬が現れる。彼女がカタギでない(自分が騙されていた)ことを察し、広瀬は抱えていた花束を彼女に叩きつける。ちなみにバラは3ダースくらいのブーケである。大量の赤い花びらが舞い散る場面はとてもバブリーで豪華であった。
余貴美子の部屋から桔平は竹中を呼び出す。自分は無関係だ、ただ巻き込まれたのだ、と自分に言い聞かせる竹中だが、ラップトップの画面は水族館で撮った彼女の写真なのであった。
竹中は拳銃を手にいれようと歌舞伎町のヤクザや昔の知り合い(オカマ役の田口トモロヲ)を訪ねる。ヤクザに殴られ、田口トモロヲにも蹴られ、路上で気絶していた竹中がようやく目覚めると、そこには拳銃が置かれていた。余貴美子のアパートへ駆けつけ、桔平に拳銃を発砲する。指を吹き飛ばされた桔平に「もう二度と関わるな」と約束させる竹中。
うらぶれた埠頭へ出た竹中と余貴美子だったが、目を離した隙に、彼女は車ごと海に突っ込み、沈んでいくのだった。「あいつに憧れてたんだよね」と独りごちながら。幼馴染みで腐れ縁だった根津甚八から逃れ、普通の結婚生活を夢見た余貴美子だったが、そんな広瀬も去り、根津甚八の屈折した愛情をも失くし、絶望しか残らなかったのだ。竹中が飛び込み、窓ガラスを割って余貴美子を救出する。しかし救急車を呼びに行っている間に彼女はまた姿を消していた。
根津の代わりにクラブを仕切っている桔平のもとへ、黒いワンピース姿の余貴美子が訪ねてくる。「自首するが、誰も売らないから竹中を逆恨みしないでくれ」と言うために。しかしちょうどそこへ、根津がお金を借りていた男が半狂乱になって入ってくる。いくつかのやりとりから推測するに、おそらくこの男は根津甚八に弱みを握られ恐喝された上、会社から横領した金を根津甚八に渡していたらしい。男は桔平を撃ち、余貴美子を根津甚八と間違って銃殺する。
余貴美子の魂は竹中のもとへ。もう隠し事のない素の(ヌードの)本人同士で二人は結ばれる。しかし、ベッドに血痕を残し、彼女は消えてしまうのだった。
エピローグは、海から車が引き揚げられるシーンである。死体の入ったスーツケースがトランクに載っている。ドアには余貴美子のワンピースの切れ端が挟まっている。。。
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このエンディングは、はっきり言って摩訶不思議である。埠頭のシーンで本当は余貴美子を助けることは出来なかった、実はその時点で死んでしまっていた、ということだろうか。黒いワンピースで現れた余貴美子は、桔平が竹中に仕返しをしないように釘をさすため、また最後に優しくしてくれた竹中に感謝するために、現れた亡霊だった、ということだろうか。なんらかの霊的なエネルギーとして現れたなら、半狂乱の債権者が、余貴美子を根津と間違って撃ったのも、解らないではない。
しかし、引き揚げられた車はフォルクスワーゲンだが、右ハンドルである。ワンピースの裾が挟まっていたのは、左側のドアなのだ。埠頭で余貴美子は間違いなく右側のドアから車に乗り込んでいる。引き揚げられた車は左側の窓が割られている。竹中の救助劇は、そこまでは事実だったということだ。姿を消した余貴美子がもう一度海に飛び込み、水中で左側のドアから車に乗り込み、ドアを閉めて水死した、ということはありえない。
竹中直人はまだシリアスな演技をしており、新鮮である。椎名桔平は本作がデビュー作だとのことだが、堂々とキレキレの頭のおかしい若い衆を演じている。余貴美子は成熟した女性の魅力があふれており、男を振り回す泣き虫の悪女として妖艶である。オカマ役の田口トモロヲは小汚く狭い飲み屋を営んでおり、無駄のない筋肉質のがっしりした体にボディコンを着ているのだが、それがやたらと似合っていて個人的には一番良かった。
この時代の一連の映画に見られるバブルの面影には、どこかでまた景気が好転し逆転できると信じているような一種の気軽さがあり、現代社会のような深刻さや危機感、悲壮感、閉塞感が伴わない。豊かさを知る人間の余裕がある。その空気感は、おおらかで悠長で、決して悪くないのである。