「アウトレイジ」&「アウトレイジビヨンド」について

北野武監督自身が「芸術を意識して撮った作品は当たらない。観客の想像力に頼るという我儘な撮り方はマズイと思った」と言うように、第15作目の「アウトレイジ」(2010)と16作目の「アウトレイジビヨンド」(2012)は、それまでの演出の方法論に見切りをつけ、ストレートに観客に向けて作られたポピュラー・エンターテイメントである。それは、北野作品の特徴であった芸術的な映像美や、削ぎ落とした演出・表現から離反し、ハリウッド映画のような「大衆向けの分かり易い娯楽」の手法で撮られた「北野作品らしからぬ北野的商業映画」と言えるだろう。初期作品のファンたちには物足りない仕上がりなのだろうが、それまでとは比にならないほどの興行的成績をおさめ、新しい一般客層をガッツリ獲得するのに成功している。

またなぜ今、ヤクザ映画シリーズなのかという点において監督は、1960年代には「網走番外地」など高倉健主演の任侠映画シリーズ、1970年代には深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズ、また1980年代からはVシネマが流行ったが、昨今は特にないのでやってみようと思ったと話している。

第4作目の監督作品「ソナチネ」(1993)を彷彿とさせる、裏社会に生きる男たちの裏切りや葛藤を描いた内容となっており、骨組み(武が率いる弱小の組が利用された挙句に全滅する)はある種、原点回帰のようでもあるのだが、北野組のレギュラー俳優陣(寺島進、大杉漣)は一切登場せず、比較にならないほどの卑劣な裏切りの連続、交錯するそれぞれの欲望、そして容赦のないバイオレンスに彩られた地獄絵図となっている。断指のシーンなどはリアルに酷たらしいので、気の弱い人には向かないかも知れない。しかし、芸達者な豪華なキャストがずらりと並ぶ上に、出演者たちのスーツやワイシャツの織りの模様、時計や指輪、腕輪念珠からメガネのデザインに至るまで、細かいこだわりが随所に見られる。今回、衣装は山本耀司ではないが、監督の美意識の高さを感じさせられる。

義理と人情を重んじ、体を張るような昔気質のヤクザを「古い時代の象徴」として据え、本作で活躍するのはインテリ・合理主義・ビジネスライクな新世代ヤクザたちである。しかし、加瀬亮が吠えていた資金獲得活動(賭博、財テク、麻薬、総会屋、海外進出)などはバブル時や、暴対法施行以前はもっと派手だっただろうと思われるので、一見、旧態依然とした価値観からの突然のパラダイム・シフトのような印象を与えるが、実はそうでもないと思う。ただ、それまでのヤクザ映画が、義理人情や家父長制のヒエラルキーなど、アウトローなりの道徳や掟、また美学としての任侠道を、比較的ウェットに描いて来たのに対し、「アウトレイジ」、「アウトレイジビヨンド」ではそのアンチテーゼのようにヤクザ同士の無情で熾烈な下克上争いを、ドライにクールに表現しているのだ。

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「アウトレイジ」では、些細ないざこざが雪だるま式に大きくなっていき、あっという間に制御が効かなくなっていく弱肉強食・自然淘汰の世界を描いている。義侠心や仁義などとはかけ離れた、謀反、欺瞞、内通、不義理、罠、扇動、裏切りなど卑劣な手を駆使したサバイバル戦である。関東一円を牛耳る暴力団「山王会」の総会のシーンから始まるのだが、國村隼(池元組組長)を始め、他七名の幹部であり二次団体の頭であると思われる人物たちが、北村総一朗扮する会長(山王会本部)と面談後、解散となる。國村隼以外の幹部たちも三次団体を持つはずだが、去っていく車の数はわずか六台である。武は三次団体(池本組傘下大友組組長)の長なのだが、なぜか付き添いのように現場に来ており、池本組だけ二台の車で去っていく。これは、他の直参より池本組が大きいという意味合いだろうか。その傘下の三次団体の中でも大友組が最も有力だということを示唆しているのだろうか。

國村隼は、獄中で知り合った石橋蓮司(村瀬組組長)と兄弟の盃を交わしていて、村瀬組は山王会に入っていないが、國村を手づるに入れてもらうことを期待している。ストーリーは、山王会本部、池本組、大友組、池本組の4団体のみを巻き込んで解体するように進んでいく。

麻薬売買をしのぎにしている村瀬との付き合いを咎められた池本。山王会本部を安心させるため、村瀬組と反目するふりをしろ、と大友に指示したことから全てが狂い出す。

大友組の一人が、村瀬組の経営するぼったくりバーに引っかかったフリをして因縁をつける

中野英雄(村瀬組若頭)が謝罪に来る( ← ここで手打ちにすれば良かったのに・・・)

組長本人が来なかったことに言いがかりを付け、武が中野の顔をカッターで切り裂く

村瀬組が大友組の一人を拉致、リンチ殺害

本部からケジメつけろと命令され、大友組は村瀬組のポン引きを射殺

おあいこだ、と國村隼と石橋蓮司は共に本部に詫びを入れるが、本部は納得せず

國村隼、武に石橋蓮司を痛めつけるように命令 → 歯医者での地獄絵図

石橋蓮司は引退。本来ナンバー2の中野英雄(村瀬組若頭)が後目を継ぐはずが、村瀬組を乗っ取る形で、そのシマを池本組が受け継ぎ、麻薬、売春、賭博などの運営権は、傘下の大友組に移行していく。

引退したはずの石橋蓮司が陰で麻薬売買を続けているのが発覚。國村隼の命令で武は石橋蓮司をサウナで射殺

親(國村)の兄弟(石橋)を殺すような子分は言語道断と、本部の命令で國村は武を破門する

武、國村を殺す

本部の命令で、國村のナンバー2杉本哲太(池本組若頭)が大友組を皆殺し

一人生き残った武、小日向文世(後輩であり、山王会と癒着したマル暴の刑事)に自首

池本組を継いだ杉本哲太と、会長の北村総一朗は、北村のナンバー2である三浦友和(本部若頭)に突然殺される

組を乗っ取られ、顔を切り裂かれた中野英雄、刑務所内で武を刺す

このストーリーで一番理解できないのが、自分の子分たちを喧嘩するようけしかける会長の心理、思惑である。まるで、サディストの単なる暇つぶしのようである。外様の村瀬組を潰せばシマを獲れるという利点があるが、池本組に大友組を潰れさせる理由がイマイチ分からない。上に立つものが二枚舌、三枚舌を弄し、それぞれの部下に出世話を持ちかけて互いを敵対させ、ヘラヘラしている光景は、ヤクザの世界のみならず、一般社会でも見られるサバイバル戦なのかも知れないが。

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「アウトレイジビヨンド」では、三浦友和(新会長)が率いる山王会が大きくなり、政界や財界にも入り込んで合法的な活動をも広げ、マル暴が手をこまねいている。山王会では再び総会が開かれるが、先代とは違い簡素なもので、「使えるものはどんどん取り立てるが、使えないものはどんどん切り捨てる」という、欧米式のメリット・ベースの報酬システムを取り入れている。つまり年功序列による体系ではなく、戦国時代の下克上のように、実力のあるものだけがのし上がる図式である。加瀬亮演じる生意気なインテリヤクザ(山王会ナンバー2)やボディガード上がりの田中哲司(山王会幹部)などがもてはやされ、すでに古参の幹部にとって面白くない状況に陥っている。

一方、マル暴も総力を挙げて、大きくなりすぎた山王会を潰そうと画策している。山王会とズブズブの小日向は従来のやり方とは違い、親切な顔をしながらヤクザを欺き、そそのかし、焚き付け、互いに潰し合うように仕向けていく。仮出所させられる武も、その渦中へ巻き込まれていく。小日向は大義のためなら、その捨て駒となるヤクザたちが命を落としても、罪悪感さえ抱かない。

今回は、関東を代表する山王会と、関西を代表する花菱会が、真っ向から抗争するのではなく、花菱会が裏で策略をめぐらせ、山王会会長を引き摺り下ろし、山王会の新体制に食い込むまでを描いている。前作では理不尽なまでのドッグファイトだったが、本作での花菱は道理に叶う目的で、武と中野英雄に協力しつつ、且つ二人の復讐心を利用しつつ、また山王会のトップに君臨する三人を鮮やかなやり方で彼らを引きずり降ろし、東京進出を叶えている。

今作では、カルマの因縁から逃れられなかった三浦友和、加瀬亮、田中哲司の末路を描くことで、若干の正当性を見出せる。北村総一朗を殺し周囲を騙して会長の座についた三浦友和は、その嘘が露見し制裁を受ける。武を裏切り、大友組の仲間を皆殺しにするのに加担した加瀬亮は、武により制裁を受ける。中野英雄の子分(元池本組組員の息子たち)を惨殺した田中哲司も制裁を受ける。最後に、詭弁を弄してヤクザたちを操ってきた小日向文世も、武により制裁を受ける。という具合に、業の深いものたちが宿命的に罰を受けるというカタルシスが描かれている。武闘派の暴力よりも、言葉の暴力の応酬を描いたと監督は話しているが、それでも十分なバイオレンス映画である。

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私は完全に、初期の北野作品のファンなので、こういった普通の娯楽映画には全く興味が持てない。しかし、「アウトレイジ」シリーズの方が初期作品よりはるかにファンが多く、興行的にも成功していることから、圧倒的にこっちがマジョリティなのだなぁ、と改めて思わされた。それまで北野作品を敬遠していた観客たちが、初期作品にも目を向けるきっかけとなれば、ファンとしては嬉しい限りであるのだが。

こういった、説明のいらないストーリーには、自身の感覚や感受性を働かせる空白部分がなく、すべての情報が一方的に供給されるので、ただ受け入れ、消費して終わってしまう。感じたり考えたりする部分がなく、すべて説明的に描かれているため、この感想を書くのも何を書けばいいのか分からず、変に時間と手間をとってしまった。商業映画とはいえ、北野節はそこかしこに見られ、ファンとしては見ないわけにもいかない作品ではある。今年は「アウトレイジ最終章」も公開されると言われている。しかし、人並み外れた美的センス、芸術性、感性をもった北野監督には、あと一本だけでも、「ソナチネ」のような、100年後にも鑑賞されるような作品を、是非撮って欲しいと思うのである。

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