北野監督作品九作目である「Brother」(2000)は、北野武監督のフィルモグラフィにおける初の完全な大衆向け娯楽映画である。日本・イギリス・アメリカの共同出資で作られた、真性のハリウッド映画であり、主たるターゲットはインターナショナルなオーディエンスであるため、国際的な露出を勘案し、ヤクザの盃の神道的な儀式、お膳での懐石料理、着物、日本刀、切腹、断指など、いかにも外国人が喜びそうなツールを使ったサービスカットも盛りだくさんである。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「HANA-BI」は芸術性が高くヨーロッパ映画の雰囲気であったが、アメリカ資本がバックアップする「Brother」はさすがにハリウッド映画的な仕上がりになっている。相変わらず日本でも、また海の向こうでも、その評価は賛否両論に分かれているが、実際にアメリカにて観客の裾野を広げることには成功したようである。
私は「アウトレイジ」シリーズなど、北野監督の大衆娯楽映画にはあまり好きではないのだが、この「Brother」に関しては、長期海外生活をしている日本人の一人として、評価しなければいけない点があると考えている。ハリウッド映画で、日本人を主人公に据え、日本人の(加藤雅也以外はまったくハンサムではない)オジさんたちに脇を固めさせて、ここまで見応えのある、あるいは見るに耐える作品になっているのは、天晴れである。山本耀司デザインの衣装も、一見何でもないスーツに見えるのだが、よく見るとお洒落で精巧で、欧米人より地味な日本人が、見劣りしないよう工夫がなされている。インタビューなどで北野監督は「外人の横に日本人が立つと、どうしても日本人は格好が悪い。日本人を格好良く撮ることに腐心した」と語っているが、アメリカの土地で、これだけ日本人を魅力的に撮るのは容易ではない。
実際、アングロサクソンは平均的に背が高く、手足も長く、頭は小さく、筋肉質あるいは豊満な体型で、顔立ちも彫が深いのだから仕方がない。ビジュアルですでに後塵を拝するのに、さらに日本人が全米進出をかけてアメリカ人に迎合しようとすると、その媚びる卑屈さのせいか、自信のなさのせいか、あるいは大昔の敗戦のトラウマのせいか、本来は凛と美しい文化さえも途端に安っぽく情けなく、自己崩壊してしまうのが関の山である。
しかし、この「Brother」では日本人が堂々と振る舞い、確かに格好良く写っているのである。周りを固める登場人物たちが、少数派民族の俳優ばかりだからかも知れないが。白人より非白人の人口が圧倒的に多い、ニューヨークでの普段の生活の中では、劣等感や差別はまったく感じないのだが、旅行などでアメリカ南部やヨーロッパに行くと、アジア人はやはりマイノリティであり立場が低く、つまり世界はまだまだ白人至上主義なのだな、と思い知らされることがある。そんな世界へ発信された「Brother」は、日本を背負って立った北野監督の挑戦であり、北野映画のプロモーションであると同時に、日本人のプロモーションでもある。
「Brother」では、日系、アジア系、黒人、ラテン系などのマイノリティ達が手を結び、絆を深めていく様子が描かれている。しかし、現実には成し得ないファンタジーだと私は思っている。人種の問題はもっと根深く、複雑である。人種のるつぼであるニューヨークでさえ、日々どれだけ人種や文化の違いを超えた交流が行われていても、伴侶や親友に選ぶ相手は、自分と同じ人種であることが決して少なくない。乱暴な言い方をすれば、異人種間では簡単に友達になれても、自分のルーツに対する帰属意識を凌駕するような接点を持たない限り、ファミリーになるのは難しいのではないか。
例えば社会の枠組みから外れてしまったアウトローたちの、疎外感・劣等感・孤独感・虚無感・絶望感などの共通点、価値観、死生観を、心の拠り所として繋がっている同士たちなら、家族と言えるような強い絆を持つことも自然かも知れない。しかし、共演のオマー・エップスには、優しい家族がいて、帰りが遅くなりそうだと母親に電話を入れるシーンまで描かれていて、明らかに捨て子だった武や真木蔵人のバックグラウンドとはまるで違う。
異人種間で、商売の利害関係や、暴力で恐怖心を植えつけて支配する従属関係のみで繋がるファミリーというのは、砂上の楼閣であるように思える。アメリカにおけるイタリア系や中国系マフィアの歴史を鑑みても、アウトローとしての自意識よりも、民族的ルーツのアイデンティティを優先しているように、また同じ日本人でさえ、大杉漣はいつまでも外様であることを揶揄され、総会の席で切腹をしてみせなければ兄弟とは認めてもらえないように、ファミリーとはもっと深く濃い結びつきなのではないか。
とは言え、これはLAで暗躍するアンダードッグスたち話のである。マイノリティとしての連帯感と帰属意識をもとに結束している、と考えることももちろん出来るだろうが、本作ではそういった側面はまったくと言っていいほど描かれていない。自身の力を過信したマイノリティの組織が、強引な手口で勢力範囲を拡大し、絶対多数である正統派イタリア系マフィアに喧嘩をふっかけ、簡単に潰されてしまうという儚い夢のような話は、まるで太平洋戦争における大日本帝国のようでもある。「Brother」は一貫して、お互いを助け合うファミリーの話でありながら、集合的に破滅、破壊へと暴走する戦争の話なのである。
そもそも、花岡組の武闘派のヤクザである武は、敵対する久松組との全面戦争を望んでいた。しかし、警察からの圧力により花岡組は解散、武の兄弟分である大杉漣は久松組の傘下におさまるという決断をする。久松組の幹部に、武を殺せと命じられた大杉は、武をアメリカに高飛びさせる。その時点ですでに武は不完全燃焼の塊であった。
武は、アメリカに到着したその翌日、薬の元締めであるチョロス(メキシコ系アメリカン)の一人に絡まれている弟を助け、報復として拉致されると、その犯人らを殺してしまう。あっと言うまに、全面戦争へ突入する展開となる。これは日本で叶えられなかった全面戦争を、場所を移してでも実践しなければならない、いわば代理戦争という、武の無意識の願望ではなかったか。この映画の中で最も有名な台詞、「ファッキンジャップくらい分かるよ、バカヤロウ!」は、この戦争の手打ちの場で、武たちが奇襲をかける際に武が吐く台詞である。チョロスのシマを奪い、トントン拍子にのし上がっていく武たち。ここで一旦、武の気も済んで、平和が訪れたかのように見えたが、さらに勢力を広げようと欲をかいたのが間違いの始まりである。他のグループのシマに対する侵略戦争に突入すると、さらに大きな敵と最終戦争を戦う羽目に陥り、武たちは全滅させられてしまうのである。たった一人、オマーだけを無事に逃して。
タイトルである「ブラザー」という言葉には、いくつかの意味が含まれている。任侠の世界における兄弟の誓い、血の繋がりのある兄弟、黒人が仲間を意味する「ブラザー」という言葉。この作品の中で顕著に描かれているのは次のブラザーフッドである。
武と大杉漣
兄弟分だが、武闘派の武に対し、大杉は穏健派。自分の組をつぶされ、子分達と生き残るために、敵対していた組の傘下におさまる決意をした大杉は、武の死を偽装し、アメリカへ高飛びさせる。その後も大杉は、武本人ではなく、武の弟分である寺島に、手紙で武の様子を窺ったりしている。総会の席で、大杉が切腹をしてみせるシーンがあり、これは蛇足だったという声も多い。しかし、大杉がどれほどの決意で兄弟(武)を海外へと追いやり、子分たちを守ろうとしているか、を雄弁に語る場面であると私は思う。このシーンでは、畳の上でお膳の料理や、渡哲也の青藤色の絹綸子の着物、清水焼のような器、亀甲花菱模様の座椅子や、光沢のある紺青色の座布団にしても美しく、外国人だけでなく日本人にも消えゆく文化を愛でる機会となっている。
武と寺島進
武の弟分である寺島は、アメリカまで「兄貴」を追ってきたばかりに、戦争に巻き込まれる。リトルトーキョーを牛耳る、日系グループを傘下におさめるため、自決する。1回目の交渉が決裂し、武たちは一旦引き上げることにするのだが、寺島は「ちょっと用があるんで」と一人残り、再度の交渉を図るのである。その時、去りゆくリムジンを見送る寺島の精悍な表情は、今生の別れを決意しているように見える。また、それを分かっているかのごとく、武はリムジンの中でサングラスをかけたまま押し黙っている。言葉のない別れは、男のロマンの世界であり、女性としては憧れに近いものを感じる。
武と真木蔵人
異母兄弟である二人は、捨て子として施設で育ったが、武が用意したお金で真木をアメリカに留学させた。しかし消息を絶った弟は薬の売人に成り下がっていた。兄は武闘派ヤクザなのだから、血は争えない。武が戦争を欲していたとしても、そのきっかけは、殴られていた弟をとっさに助けてしまったことである。ラストで、ダイナーでコーヒーを飲みながら、マフィアが殺しにくるのを待っている武は、弟に電話をかけるのだが、弟は既に殺されていて出られないのだった。
武とオマー・エップス
武はオマーの目を割れたワインボトルで突き、オマーは人質に取られた武を犯人もろとも撃ち、お互いを負傷させあっているが、それでもわだかまりもなく付き合い、言葉が通じないなりに、子供のような遊びに一緒に興じたりしている。ラストでは武が、オマーだけは上手く逃してやることに成功する。友達になれたのは分かるが、それまでは「アニキ」と呼びつつも、友達以上ではなかったと思う。バッグの中の大金を見て、はじめて生き延びられる希望をつなぎ、最初から自分を逃すために、そこまで計算してくれていた武に、はじめて本当の意味で「アニキ」として、親愛と尊敬の念を抱いたのではないだろうか。
加藤雅也と寺島進
単身で交渉に戻ってきた寺島が「兄貴には命をかけている」ことを証明するために、加藤雅也の目の前で、躊躇せず自分で頭を撃ち抜く。この一件は、加藤雅也に武の子分とならしめただけではなく、寺島に対する畏敬の念を芽生えさせ、また、寺島の心意気を継ぐように、あるいは寺島の漢気(おとこぎ)に触発されるように、加藤雅也は武の組を大きくすることに熱中していく。
武と加藤雅也
かけがえのない弟分であった寺島進の、置き土産のような加藤雅也は、寺島の代わりを務めるべく、「死んだ寺島のために」組の勢力を拡大しようとするが、それは武の哲学とは相容れず、武は苛立ちを隠せない。武は兄貴として加藤雅也をどうすることもできないまま、あっと言うまに組は瓦解していくのである。
寺島進と真木蔵人の友人たち二人
加藤雅也の前で寺島が自決した後、加藤が武の前に現れた時、二人は拳銃に手をかけ、今にも加藤に復讐しようとしている。底辺でゼロの状態から、共にのし上がったという連帯感は強かったろう。
チョロスとの第一次戦争が収束してから、加藤雅也による侵略戦争が始まり、イタリアマフィアたちとの最終戦争へ至るまでの間、北野監督のお家芸とも言える、男子たちの遊びのシーンが挟まれる。「ソナチネ」(1993)の焼き直しかと言われるほど、似た場面となっているが、「ソナチネ」ほど「生」と「死」の対比が全面に出されているわけではない。監督の意図は解らないが、またもやカイヨワの遊びの分類を制覇している。
競争: 運動、格闘技など → バスケ3 on 3、将棋
偶然: ジャンケン、くじ、賭博など → サイコロの目を当てる賭博、表の通りを男性・女性のどちらが多く通るかを賭ける
模倣: 演劇、モノマネ、人形 → マイケル・ジョーダンの真似でフリースロー
眩暈: メリーゴーランド、ブランコなど → 屋上から紙飛行機を飛ばす、海辺でキャッチボール
この映画のプロデューサーは、オフィス北野の森昌行氏と、大島渚「戦場のメリークリスマス」(1983)やベルトルッチ監督「ラストエンペラー」(1987)などのプロデューサーであったジェレミー・トーマス氏である。アジア映画に関心の強いトーマス氏は、「戦場のメリークリスマス」に俳優として出演していたビートたけしが、映画監督として台頭し活躍していることに瞠目し、日英合作で映画を撮る企画を持ちかけたという。「外国で撮りたい」と北野監督が希望すると、話はトントン拍子に進み、「Brother」をハリウッドで撮影する運びとなったとのこと。
ハリウッドでは、台詞をひとつ変えるにも出資者の承認が必要だったり、映画監督には最終編集権がなかったり、撮影スタッフも俳優も労働組合に守られていて、日本の撮影環境とは事情が全く違う。しかし、両プロデューサーたちの尽力のおかげで、北野監督はハリウッドでも奇跡的に独自のスタイルを貫くことができたようである。いつもの北野組のスタッフをハリウッドに上陸させ、アメリカ人の現場スタッフをその下に付けたり、台本をその場でどんどん変更したり、また編集権を監督サイドがキープしたり、あらゆる例外的な措置が取られた。そういった特殊な環境の手配が、二度とできる保証はない。北野監督が「Brother」以来、ハリウッドで映画を撮っていないことを、本作の失敗で懲りたなどと揶揄する声もあるようだが、実際オファーはあるものの、色々面倒な上、編集権がないという条件を飲めずに断っている、というのが真相のようだ。