鈴木清順監督の「夢二」(1991)は、「ツィゴイネルワイゼン」(1980)と「陽炎座」(1981)と合わせた「大正ロマン三部作」のフィナーレを飾る作品である。「ツィゴイネルワイゼン」は内田百間、「陽炎座 」は泉鏡花の小説を原作としているが、「夢二」は完全なオリジナル脚本のセミフィクションとなっている。まったく説明もなく不親切なくらい淡々と展開していくので、竹久夢二のファンでなければ見落としてしまう箇所がいくつもあり、逆に言えば、脚本が意外と忠実に夢二にまつわる事実をなぞっていることが分かる。
この脚本は主に、夢二の代表的な詩であり歌謡曲にもなった「宵待草」(黄色)と、見返り美人図の「立田姫」(赤色)に着想を得ているのではないか、と私は考える。後ろを振り向かない立田姫、その顔を見てみたい男の心理、待てども来ない人を想う宵待草の三行詩を元に、実在の人物たちと架空の人物たちを交えて、幻想的な世界が織りなされていく。
竹久夢二は大正時代に「夢二式美人」と呼ばれる美人画で一世を風靡し、その他にも詩画集、童話、創作人形、デザイン会社(どんたく図案社の企画のみ)、港屋(夢二ブランドの雑貨店)のプロデュースなど、幅広い分野で活躍をした、大正ロマンを代表する画家である。しかし、夢二は独学で絵を学んだため、社会的認知の高い展覧会(帝展・文展)に出品することは一度もなく、正規の絵の道ではなく、裏道を歩く者としてのコンプレックスが強かったという。映画の中で登場する「稲村御舟」という画家は、速水御舟をモデルにした人物だと思われるが、夢二と同時期に活躍した日本画家であり、夢二とは対極にある画壇のエリートの象徴であったと考えられる。
しかし、絵画を大衆文化に応用し、消費生活の中で愉しめるアートへと変えていったのは夢二の功績であり、今でいうグラフィック・アートや商業デザインを牽引する存在として、すなわち時代のパイオニアだったのである。昭和に入ってからは、自らの絵の世界観を三次元で表現するために、人形制作に精を出し、アメリカでも個展を開いている。映画に登場する気味の悪い人形は、夢二の創作した「どんたく人形」を模したものであり、夢二の分身であると考えられる。
夢二の画家としてのデビューは、社会主義結社の「平民社」が発行する機関紙に掲載されたコマ絵であった。夢二はその後も次々と、政治的な風刺画や思想的な絵を発表し、当時は社会主義運動の活動家であった荒畑寒村と自炊生活を共にしていた。その後は童話雑誌の挿絵や新聞社の時事スケッチなどを担当していたが、1910年に「大逆事件」が起こり、社会主義者やアナキストが一斉検挙された折には、夢二も平民社との関わりから検挙され、二日間警察に拘束された挙句、しばらくは尾行がついていたという。映画に登場する刑事との邂逅のシーンで、夢二が嫌そうな表情をするのは、そういった警察との経緯によるものである。
ちなみに「大逆事件」とは、日露戦争の勝利によってナショナリズムに湧いていた日本において、そんな風潮を批判する反戦論、非戦論、反ファシスト運動を呼びかけていた幸徳秋水らを弾圧するため、彼らによる「明治天皇暗殺計画」を明治政府がでっちあげて、一斉検挙に及んだ事件である。臆病風に吹かれた夢二はこの件以降、政治的な風刺画を一切封印している。また、警察の手から逃れるために赴いた潜伏先の九十九里浜で、とある美人と恋に落ち、そこで誕生した詩がかの有名な「宵待草」である。その九十九里浜には、よりを戻したばかりの元女房の「たまき」と次男が帯同していた。映画の中でも描かれるように、夢二はどうしようもないほど女好きで女たらしで浮気性だったのである。
恋多き夢二の50年の人生の中でも語られるのは、ただ一人正妻となった女性「たまき」、夭折した永遠の恋人「ヒコノ」、有名画家(伊藤晴雨)から自分へと乗り換えたモデル「お葉」の三名である。写真では三名とも似たタイプの、つまり夢二式の美貌の女性である。たまきとは離婚後も同棲と別居を繰り返し、離婚後に次男と三男を授かっているが、刃物沙汰の末、ようやく距離ができたという。映画の中では脇屋家の女中に対し、夢二が「あ、君名前は?そっくりなんだ、最近別れた女房のたまきと」と言う台詞の中でのみ登場する。
夢二のファンであったヒコノは、自身も絵を志しており、夢二にとっては恋人であり、モデルであり、庇護するべき教え子のような存在であった。しかし十歳も年上の色事師との交際は親に反対され、家出同然で一緒になるが、結核を患ってしまい東京に連れ戻される。入院先で夢二と偶然鉢合わせたヒコノの父は、夢二を階段から突き落としたというほどの怒りようだったという。ヒコノはそのまま23歳の若さでこの世を去ってしまう。映画の中では宮崎萬純が夢二の絵から出てきたかのような可憐なヒコノを好演している。
もともと責め絵・縛り絵で有名な伊藤晴雨の愛人でありモデルであったお葉は、伊藤と別れた後に夢二と出会い、同棲を始める。子供を授かるが夭折してしまい、また夢二のヒコノに対する未練に悩まされ、自殺未遂を起こす。その後は、医者と結婚し幸せな生涯を送っている。映画の中では、広田レオナが蠱惑的で天真爛漫なお葉を演じ、夢二を追いかける様が描かれている。
映画の舞台となっている金沢は、この三名の女性にとって縁がある。たまきは金沢出身であるし、ヒコノは療養のため、夢二に金沢の湯桶温泉に連れてきてもらっている。お葉も自殺未遂の後、静養のため、金沢深谷温泉に連れてきてもらっている。
冒頭から登場する女郎について、夢二は「手が大きい。百姓が似合いそうだ。私は手足が大きい女が好きなんだ」と言う台詞があるが、これについては、夢二式美人は華奢でなよなよした雰囲気だが、手足が大きいのが特徴であることに起因すると思われる。また、どこかの廃屋での房事の後、夢二が顔に「へのへのもへじ」の落書きをしたりしてふざけている場面があるが、これについては夢二による「ふるさとに帰ればへへののもへじかな」という有名な句があるので、ひょうきんでお調子者だった子供時代にインスパイアされたシーンだと思われる。ちなみに夢二の本名は竹久茂次郎(もじろう)である。
また、映画の中で原田芳雄が、鬼松に殺された女を表現して「鳩胸出っ尻甲高十三文」と言う台詞があるが、これは当時の価値観において不美人の代名詞なのだそうだ。ちなみに英語字幕は「She was like a potato」(田舎者的なイメージ)であった。また、「わ印」という言葉も頻出するが、これは猥褻画(春画)のことだという。英字幕がなければ私は意味が分からなかっただろう。
鈴木清順監督の大正ロマン三部作の中では、「夢二」は一番ストーリーがわかりやすいと言われているが、私にとっては「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」よりも掴みどころがなくて難しかった。前後する時間軸はさておき、電車の中で出会った花嫁に片袖を貰う、とか意味がわからないことが多すぎる。
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あえて、時間軸を考慮してあらすじを浚ってみると、最初の出来事は、電車の中でジュリーが婚礼衣装に身を包んだ毬谷友子に出会い、彼女のスケッチ画を描き、なぜか彼女の片袖を貰うことだろう。
それから数年後、原田芳雄に自画像をバカにされ、ジュリーは原田に決闘を申し込む。しかしジュリーは先に撃ち損じてしまい、原田はジュリーの人気が絶頂に達した時まで、とどめの一発をお預けしようと言う。以来、その一発に怯えているジュリーは、額に一発撃ち込まれた夢を見て目覚める。そこから女郎と戯れる。
女郎と戯れながらも自分は駆け落ちをするんだ、と嬉しそうに語る。病身の恋人(ヒコノ)が命をかけて駆け落ちしてくるというのに、女郎と呑気に遊んでいるゲスなジュリーである。不安になり、ヒコノが通う銭湯で待ち伏せするジュリー。愛を確かめ、いざ金沢へと赴くと、今度はそこで別の女性(毬谷友子)と出会ってしまう。とことんゲスな男である。夢二はまず抱かないと、その女の絵を描けないのである。
ジュリーは毬谷友子に見覚えがないのだが、毬谷はジュリーを覚えていた。電車の中で片袖をくれた花嫁であった。しかも毬谷の夫はなんと、ジュリーが決闘を申し込んだ敵方の原田芳雄であった。しかし毬谷は、原田は死んだと言う。原田は他の女と浮気しているところへ、その女の情夫が踏み込み、女ともども殺されてしまったらしいのだ。そしてそ現在その情夫(長谷川和彦)は山の中に潜伏しており、警察が山狩りをしている最中なのであった。
そこにヒコノの使いと称し、お葉(広田レオナ)がやってくる。ヒコノの恋人と知りながら、ジュリーを誘惑するレオナだが、夢二には軽くあしらわれている。レオナに誘い出され、「宵待草」という名のカフェに行くと、そこで待ち構えていたのは原田芳雄であった。殺されかけたが、死んではいなかったのである。
(原田は、ジュリーと毬谷友子が顔見知りであることを知らないような口ぶりをするが、実は片袖の一件から最近の逢瀬についてまで、原田が知っていたと仮定すると、色々と辻褄が合ってくる。もともと自画像を貶したのも、嫁が片袖を他人であるジュリーにあげてしまったため、「魂を失った人形」のようになって嫁いできたと考えているからかも知れない。たまに屋敷に様子を見に戻っていた原田は、毬谷と関係するジュリーを目撃していただろう。それでレオナを使い、「宵待草」というカフェのセットを作ってまでジュリーを騙して呼び出したのである。その上で、ジュリーに妻の春画を描かせてから、決闘の続きとして、ジュリーを改めて殺そうと考えているのである。)
そこからジュリー、レオナ、原田の三人は行動を共にする。そこに原田の弔いに訪れた御舟(坂東玉三郎)も加わり、毬谷の待つ屋敷へ行くが、毬谷は原田の存在を認めない。「夫は死にました」と毬谷が言えば、「あなたは名無しです」と玉三郎が言う。
名無しになってしまった原田は、旅の途中で病気で倒れたヒコノを拾い、介抱する。しかし夢二の恋人と知ったからには帰すわけにはいかなくなり、原田はヒコノにも手を出すが、「私は江戸の女です」ときっぱりと拒まれる。
湖に捨てられた夫の死体を探してボートに乗っている毬谷の前に、湖の底から現れた原田は「復活祭」と開こうと言う。赤色の間では復活祭の饗宴が開かれ、青色の間では原田の希望でジュリーが毬谷をモデルに春画を描いている。赤色の間には食べ物や酒や人々の生気で満ち溢れている。青色の間では、春画を書き終わったら殺される運命のジュリーと、原田を仕留めにやってきた長谷川が、死を予感しながら静かに酒を飲んでいる。
しかし、毬谷に原田を殺さないでくれと懇願され、戦意を喪失した長谷川は、ジュリーと毬谷に自殺の介添えを頼む。三人は湖をボートで渡り(三途の川のような描写)、山中で長谷川は首を吊るのである。ジュリーは毬谷にこのまま逃げようと言う。毬谷が着替えてくると言って、ジュリーを置いてその場を去ると、屋敷へ戻る道で毬谷はヒコノとすれ違う。ヒコノもジュリーを探している。「どこにいるんです、先生。ヒコノよ、教えてちょうだい」と彷徨い歩くヒコノに対し、すすき野の海原で現実感を失っていくジュリーは「誰を待っていたのかな、私は何を待っていたのかな」と呟く。ヒコノとジュリーは最後まで会えずじまいである。冒頭の後ろ向きの女の映像と重なるように、夢二の「立田姫」の絵と「宵待草」の詩が浮かび、映画は終わる。
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東京から金沢へ旅をする道のりを、各駅構内で買った当時のお弁当の掛け紙で表現している。横浜の上等お弁当 → 沼津のひとよすし → 静岡の上等お弁当 → 浜松のお寿司 → 豊橋のお寿司 → 岡崎のお弁当 → 名古屋のお寿司 → 米原のお弁当 → 今庄の上等お弁当 → 金沢のお弁当と、なかなか遠い旅路である。
また、ジュリーが原田とレオナと出かける金沢見物は、当時の絵葉書で表現されている。尾山神社 → 浅野川 → 金沢城石川門 → 兼六園の霞が池・花見橋 → 浅野川大橋 → 路面電車となっている。
この映画は美術的、絵画的、演劇的な演出や詩的な台詞が多い。タイトルバックに「表方」と「裏方」という表現が用いられているように、演出にも「表」と「裏」が多用されている。登場人物たちの会話も、不自然なほど皆が揃って表側を向いていて、すなわち互いに向かい合わない。
また、裏向きと表向きだったりする。
表向きと表向き。
全員が裏を向いているシーンもたくさんある。
また不思議なことに、映画の後半では毬谷友子、広田レオナ、ヒコノ(宮崎萬純)が代わる代わる同じ着物を着ている。前半ではまったく違う装いである。また、旅館の女将だけは影響されることがない。この演出については、「夢二の女」として夢二の中で比重が混同され始めているという暗示だろうか。
また色の演出には、宵待草の黄色い花をイメージしたボート、生(エロス)の赤、死(タナトス)の青が際立っている。
ラストは立田姫の完成で締めくくられるが、鈴木清順監督の狙わんとするところは、あいにく私の理解力の範疇をはるかに超えている。