「御法度」について

日本の歴史の中では、やはり動乱の戦国時代と明治維新は飛び抜けて面白く、大河ドラマの主題になることも多いが、私は明治維新なら断然倒幕派に思い入れがあり、新撰組に魅力を感じることは少ない。やたらと明るい水色のだんだら模様の羽織も、使命感に燃える若い浪士たちの血気盛んなイメージも、厳しい隊規の下に仲間らを粛清していく冷酷さも、彼らが辿った末路のせいか、哀れで痛々しくて目を背けたくなるほどだ。

大島渚監督の遺作となった「御法度」(1999)は、新撰組を素材にはしているが、主な題材は衆道であり、新撰組の活躍や悲劇を、美談のように描いたものでは決してない。一人の妖(あやかし)のような美少年の存在により、規律正しい隊内がにわかに乱れていく様子を、ミステリー仕立てで描いた異色の作品である

1995年の時点で制作に着手されるはずが、監督が脳溢血で倒れたため一時は暗礁に乗り上げた企画だという。監督の回復を待って、ようやく三年後に完成となった作品である。当時まだ十五才だった松田龍平がデビューを飾り、男たちを惑わす蠱惑的な存在を怪演している。主演のビートたけし演じる土方歳三の目を通し、松田龍平のまわりで起こる謎めいた出来事を追っていくが、映画の中で謎は謎のまま解明されず、答えを観客の想像に委ねたまま映画は終わってしまう。(その点、北野武監督の映画は、誰よりも大島渚監督の影響を色濃く反映している気がする。)

観客の想像を掻き立てる仕掛けは成功し、ネットでも千差万別な考察・解釈が論じられていて、見る人の感性によって受け止めかたが全く違うことが分かる。それでも、大島渚監督の意図に限りなく近づけるよう、皆この映画を深く分析してしまうのである。その謎の一つ一つに迫ってみたい。

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・まず、田口トモロヲ(湯沢)を殺したのは誰か?

個人的には、犯人は松田龍平だと考える。浅野忠信と別れるよう催促したり、殺してまで独占するべく龍平の首に手をかけたり、「斬ってやる。お前を、ではない」と浅野の暗殺をほのめかしたりする田口の独占欲に嫌気がさしたのではないか。「人を斬るために」新撰組に入った龍平は、ラストで浅野を斬る時と同じように、嬉々として田口を斬ったのではないだろうか。

・トミーズ雅(山崎)を襲ったのは誰か?

これも、犯人は松田龍平だと考える。月光のシルエットの人物は長身で、刀を反らせ右上段に構えるフォームは、冒頭の実技試験でも、的場浩司との対決でも、ラストで浅野を斬る時も、龍平のデフォルトのポーズである。他の誰かが龍平のスタイルを真似した可能性もあるが、的場浩司の一件をたけしに報告する際に、トミーズ雅は「誹謗者は加納の未熟を当てこすったのでしょう」と話してることから、龍平の腕を知らない。トミーズ雅を襲う動機は、前の晩に島原に置いて帰られ、つまり雅が自分の誘いになびかなかったことで、恥をかかされた腹いせではないだろうか。浅野の小柄(こずか)を落として行った理由は、浅野に濡れ衣を着せるため、と、さらに嫉妬に狂う他の男を演出することで、自分のマーケット・バリューを釣り上げ、雅の気を引くためではないだろうか。

・前髪に願を懸けていた、松田龍平(加納)の本意は?

これはラストまで分からなかったが、おそらく武田真治を落とすことではなかったか。龍平と武田真治の絡みは、冒頭の剣術試験と、坂上二郎の存在を聞きに行った時のみである。その時も、武田真治は龍平をまったく特別視するでもなく、他の隊士たちと同じように扱った。この時点では、龍平も恋心を抱いているようにも見えない。しかし、裕福な家に生まれ育ち、容姿に恵まれ、能力にも優れた(若くして師範代となった)龍平は、それまでもずっと贔屓され、優遇されてきた特別な存在だっただろうから、新撰組の中で唯一、自分に全く興味を示さず、また剣術の腕も敵わない美青年の武田は、龍平にとっては異質な存在ではなかったか。好奇心を掻き立てられ、どうしても手に入れたいと思うに至ってもおかしくない。

・ラストで武田真治(沖田)は何故、ビートたけし(土方)に「用を思い出した」などと言葉をにごし、一人で龍平(加納)を粛清しに行ったのか?

これは、龍平と武田真治の間には、ビートたけしには言えない、もしくは言うまでもない「何か」があったことを暗示しているのではないか。浅野との対決の日、昼頃から夕方にかけて、龍平がお寺の境内で一人ぼんやりしているシーンがある。龍平は武田真治を呼び出し、逢い引きするつもりだったが、武田にすっぽかされたのではないだろうか。今更だが、その返事を、斬り捨てるという方法で示したと考えられる。逆に龍平は、武田が逢い引きに応じてくれたと思ったのかも知れない。「沖田さん」という声には喜びの色がにじんでいる(海外版)。

・武田真治(沖田)が、ビートたけし(土方)に尊敬以上の想いを抱いている根拠は?

ラストで武田は「近藤さんの惣三郎を見る目は他の隊士を見る目と違います。土方さんもです。」また、「近藤さんと土方さんの間はどうなんです。私にはお二人の間には誰も入れないという暗黙の諒解があるような気がします。それが新撰組なのです。ところが、誰かが時々そこへ入ろうとする。近藤さんが迂闊に入れようとすることもある。土方さんはそれを切る」と言うが、これを「洞察力の鋭い弟分の思索に過ぎない」と一蹴してしまえるだろうか。田口トモロヲが龍平に愛を告白する時に言った台詞と、対になってはいないか。「問題はなぜ、私はその手加減が分かるほど、君をよく見ているかということだ。加納くん、それがなぜか分かるか。」

・池田屋事件の頃にも衆道の嵐が吹き荒れたのは何故か?

池田屋事件は1864年7月の出来事である。8月には幕府や会津藩から千両以上の褒賞金を受け取っている。その後、近藤勇は故郷へ戻り、隊士増員のための募集をかけており、伊東甲子太郎に新撰組に加盟するよう説得している。この時期を「池田屋事件の頃」と仮定する近藤は伊東甲子太郎の入局を喜んだが、土方が難色を示したのは史実である。映画の中では、冒頭の剣術試験の際や、広島から戻った夜の酒宴の席でも、崔洋一(近藤)を中央に、ビートたけし(土方)と伊武雅刀(伊東)が左右についてサポートしている様子が描かれている。つまり、伊武は後から入ってきたにも関わらず、ビートたけしと同じランクで重宝されているのである。

つまり伊武の入隊こそ、武田真治の指摘する「・・・お二人の間に・・・誰かが時々そこへ入ろうとする。近藤さんが迂闊に入れようとすることもある」という、事象そのものではないか。つまり、隊が乱れる時というのは、上層部の足並みが乱れる時なのである。バタフライ効果のように、上層部の揺らぎが、隊全体に波及してさらに大きな揺らぎとなって現れているのではないだろうかたとえ、土方と近藤の間に男色のケが無くとも、二人の堅い友情の間に誰かが入ってくることで、何か異質なものが入ってくることで、バランスが崩れることは想像に難くない。

伊武が「私は剣の腕だけで入隊の資格有りとすることには疑問を持っていますが、それがお二人の御方針であれば・・・」と言えば、ビートたけしが「新撰組は歯向かうものを斬るための集団ですっ!」と言い返す。伊武が「おそらく今の混沌とした京の事情を収拾できるのは、清濁併せ吞む近藤先生しかおりませぬ。土方さんはどう思いますが、今の問題」と言うと、たけしは「私には一向に興味ありませんなっ!」と切り捨てる。崔洋一が伊武を広島へ同行させると言えば、たけしは「伊東さんか・・・彼らが加盟してから隊の空気は浮ついている」と苦々しく言うのだが、隊の空気が浮つくきっかけを作っているのは、たけし自身に他ならないことに気付いてはいないのである。

・龍平(加納)は何故、新撰組に入隊したのか?

映画の中でも本人が答えているように「人を斬れるから」だろう。先にも書いた通り、裕福な家に生まれ育ち、容姿に恵まれ、誰からも可愛がられ、何でもそつなくこなせる龍平にとって、それまで人生は簡単過ぎたのではないか。だからこそ新撰組という、生死の境に身を置く、密度の濃い世界をあえて選んだ。剣術試験の後、浅野忠信が軍中法度について不満を漏らすが、龍平はさらりと「昨年の御所の戦いの折に出来たと聞いております」と答える。死が背中合わせにある集団であることは、百も承知の上なのである。初めての斬首の場でも、少しも躊躇がないことから、ビートたけしが「この男、人を斬ったことがあるのでは」と訝るほどだ。そしてたけしは、それが勇気とは別のものであることを察知する。また、武田真治に「あいつ、何を考えて入って来たんですかね」と問われ、たけしは「においだよ」と答えている。血気盛んな若者の集団が放つ狂気、熱気、殺気のにおいに惹かれて来たのだと。

・トミーズ雅(山崎)に「誰と結縁しているんだね?」と問われ、龍平(加納)が「誰とも」と答える真意は?

このシーンでは、龍平が悪女に成り下がった、あるいは「化け物に棲みつかれた」ことを明確に提示している。すでに田口トモロヲと、浅野忠信との間に肉体関係があるのに、純潔を売りにするようなカマトトぶった白々しい嘘なのである。「山崎さんのことは好きです」と言ったり、夜道で雅の手を握ったり、龍平は自分に気のありそうなトミーズ雅を翻弄して楽しんでいるのである。「もう数人と寝ました」などと興ざめするような真実を、悪女が告白する訳がないのだ。他に名前の上がっていた、武田観柳斎や四方軍平とのやりとりは描かれていないが、とっくに関係を持ち、龍平が手玉に取っていても不思議ではない。

・ビートたけし(土方)が「何故、加納くんに稽古をつけられたのですか?」と坂上二郎(井上)に問うと、武田真治(沖田)が「私が加納くんに言ったんですよ、井上さんに稽古をつけてもらえと」と嘘をつくが、その真意は?

実際に武田真治が龍平に言った台詞は、「本人が言うように、おじさんの剣術は本当に下手ですからね。稽古の時は加減してあげてくださいよ」という助言である。たけしに「何故、加納くんに稽古をつけられたのですか?」と問われ、返答に窮していた坂上二郎に助け舟を出したに過ぎないと考える。坂上が恥をかかないように(坂上をかばって)、もしくは、坂上がたけしに恥をかかされたと恨まぬよう(たけしをかばって)、咎の矛先を自分に向けたのではないだろうか。

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下の人物相関図で説明すると、ストレートの男性たちも、ゲイの男性たちも、武田真治以外の皆が、揃いも揃って龍平に興味を持っていることが分かる。

性的な対象であるか否かは別にして、むさくるしい男ばかりのねぐらに、突如舞い降りた天女のような美少年なのである。皆が他の隊士とは違う目を向け、つい「可愛いなぁ」と愛でてしまうは自然なことだろう。しかし、魔性の美しさというのは、人の心を惑わし、秩序を乱し、ついには国を傾かせるという、社会的には迷惑な存在でしかないのだ。それは、古今東西、万代不易の真実である。

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・古参の四人(近藤・土方・沖田・井上)がストレートである根拠は?

武田真治が「私は子供の頃から、近藤さんと土方さんの下で育ちました」と言うほど、同郷で同門の四人の付き合いは長いため、それまでの行動に裏付けされている。例えば、武田真治が崔洋一の小姓だったとしても、そういった出来事はなかったのだろう。ビートたけしは武田真治に「近藤さんにそのケはない。お前の知っている通りだ」と言い、坂上二郎も「私はそのケはござらぬよ。しかし、そのケのある方々の気持ちも今回少々分かったというところかな」と笑っている。最も強く否定するのは武田真治である。作品の中盤では「あの一件は私には苦手ですよ。男が男を追っかけるなんて」と吐き捨てているし、終盤でも「私にはそのケがないのはご存知でしょう。嫌いです。あの二人、どちらとも嫌いだな。顔を見るのも、声を聞いてさえゾッとする」と語っている。否定する台詞がないのは、ビートたけしのみである。

・崔洋一(近藤)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

総長室に龍平と浅野が挨拶に来た際、たけしが「珍しい、近藤さんがこんな顔をするのは。そのケはないはずだが」と心に思う。また、「小姓に欲しい」、斬首を龍平にさせ、「勇気がある」と褒めたり、「ちと耳に挟んだが、加納は誰かとできたそうだね」、「あれは結局、誰かの色子になっているのかね」と気にかけまくっている。たけしが「あんたまさか、惣三郎に惚れてるわけではあるまいな」と問うても、はぐらかした返答をしている。

・ビートたけし(土方)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

龍平に遊郭で女を教える計画を立て、たけしは「どうも近藤も私も惣三郎については、ちと甘いようだ」自虐的に嗤っている。また、ラストで白い着物を着た龍平に向かって、自分が歩み寄っていくシーンを夢想していることから、潜在意識的には惹かれていたことを否定できないのではないか。

・トミーズ雅(山崎)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

やっと島原へ一緒に行くことを承諾してくれた龍平に、一瞬ポーッと見惚れるトミーズ雅。「いかん、いかん」と自制する。また、島原へ向かう道中、龍平に手を握られて、「いかん、いかん」と再び自分を戒めている。

・坂上二郎(井上)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

本陣内で出会うたびに、「お宗旨さん」と話しかけている。「お宗旨さん、わしは忙しくてあんたに稽古をつけてやる暇はないが、いつかみっちり稽古しよう」、道場では「お宗旨さん、一汗かこう」、そのせいで一波乱あった後には「わしはそのケはござらぬよ。しかし、そのケのある方々の気持ちも今回少々分かったというところかな」と茶化しているが、美貌の少年に心惹かれていたことは否定できない。

・浅野忠信(田代)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

浅野は、ストレートな愛情表現である。「恋しい念者を呼んどった」、「今夜しのんでいく」、「声はかまわんが、そなたと寝ずに死にとうない」などである。その後、龍平は浅野を避けており、二人の恋路については描かれない。しかし、道場での二人の立ち合いの雰囲気から、二人が結ばれたことが発覚するのである。

・田口トモロヲ(湯沢)が龍平(加納)に興味を示していた根拠は?

田口も「私は君を抱いて明けのカラスの一声でも聞けば、寿命が縮まっても構わんと思っているんだ。惣三郎、私の想いを遂げさせてくれ」と、ストレートな告白をしている。また、「俺とこういう仲になっても、お前が田代と別れる気配がないからだ。手を切ってしまえ」などと、独占欲も強い。

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人は美しいものが好きなのである。生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、美しいものが判るという。例えば、自然界の中のシンメトリーや黄金比、または人間の、顔の造りのシンメトリーや黄金比、はち切れんばかりのみずみずしい細胞、つややかで光沢とハリのある髪など、太古の昔から人間のDNAにプログラムされている、「健康で優秀な遺伝子」の記号に対する、人間の自然な反応なのである。それは健康で優秀な遺伝子と交配することにより、自身の子孫の生存のチャンスを広げ、繁栄の可能性を高めるために、我々に備わっている本能だとも言える。そして、そのプログラムはきっと、人間の性別を超えて作動してしまうこともあるのだろう。美しいものには、人は無条件に心を奪われてしまうのである。しかし繰り返すが、魔性の美しさというのは、人の心を惑わし、秩序を乱し、ついには国を傾かせるという、社会的には迷惑な存在でしかないのだ。完璧な美貌を持つ人間は、普通の人間の社会からは浮いてしまうのである。

最後にビートたけしが切り倒す満開の桜の木は、そういった「人の心を惑わすほどの美しいもの」の象徴であり、切り倒すことでその化け物を成敗したメタファーとなるのではないか。ラストのシーンは溝口健二監督の「雨月物語」の湖を渡るシーンのオマージュかと思うほど、水墨画のような幽玄な世界として描かれている。上田秋成の短編集「雨月物語」の最初のエピソードである「菊花の契り」も、ホラー的な要素を含み、幽寂閑雅な日本的な美の世界へいざなうツールとしてぴったりである。武田真治が「菊花の契り」を男色の話だと読み解いたのも、龍平に言い寄られたことが発端ではないだろうか。また、武田真治の龍平に対する嫌悪は、本当に衆道に対する拒絶反応か、あるいは、今まで隊で唯一の美青年として、トップの二人に可愛がられてきた武田真治の嫉妬は少しもなかったのか。たけしの関心が龍平に向くことに、少しも寂しさを感じなかったのだろうか。

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