2015年に公開された「龍三と七人の子分たち」は、北野作品第17作目のブラックコメディ・エンターテイメントである。ストーリー展開も台詞の掛け合いも、なんだか漫才、あるいは落語、もしくは漫談を聞いているような安定感とノスタルジアを含み、ピリリと辛くて哀しい刺激が相まって、なんだか複雑な気持ちのまま笑い転げてしまうような作品だ。サントラが演歌調であれば、侘びしくショボくれた老人たちに映ったかも知れないが、バンドネオンの哀愁漂うメロディには洒落た異国情緒が滲み、日本の高齢者たちを決して憐れで不憫な存在にしていない。むしろ、ご高齢の方たちの色気、洒落っ気、茶目っ気を存分に引き立てている。
黒澤和子セレクトの衣装も、ピンストライプの派手なスーツや革ジャンなど、日本のお爺さんたちをハードでロックな外観に仕上げていて、特に近藤正臣の上品な銀髪に、金のネックレスやヴェルサーチ風のハデなシャツなど、群を抜いて格好良い。藤竜也の白髪混じりの無精髭も、日本のおじいちゃんのイメージを塗り替えてしまうほど素敵である。高齢者というと、角が取れて丸くなり、脂が抜けて枯れた「好々爺」を想定してしまうが、この作品に出てくるご老人たちは、なかなかパンクである。皆、白髪頭で若干ヨボヨボしていても、毒気は抜けておらず気持ちは若いまま。
年金や生活保護など世相を写したリアルな側面を描きつつも、今度は引退後の「永遠の夏休み」であり、やはりいつもと同じく、男子ばかりで集まってキャッキャしているイメージを拭えないのは、北野監督らしいのではないだろうか。萬田久子や清水富美加なども花を添えるが、やはり女子は仲間には入れてもらえないのである。
登場するのは以下8人のヤクザたちである。再会した老人たちは昔を懐かしみ、新たに「一龍会」という組を結成する。アジトは、生活保護を受けながら近藤正臣が一人暮らしをする、団地の一室である。一人一人の得意技などキャラ立ちがしっかりしていて、本作の面白さは彼らが繰り広げる、漫才の掛け合いのようなトボけた応酬にある。
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藤竜也「鬼の龍三」
点数制(殺人10点、傷害5点、詐欺2点、懲役一年につき1点)の結果、組長に選抜される。懲役は20年ということなので、息子の勝村政信の人生の半分はおそらく牢獄にいた計算だ。どんな役柄でも、相変わらずダンディで素敵な藤竜也である。大島渚監督「愛のコリーダ」(1975)へのオマージュか、本作でもほとんどヌードを披露しているが、とても御歳73才(当時)と思えない立派な体格である。いくつになってもカリスマ性があり、典型的なアルファ・メール。
近藤正臣「若頭のマサ」
現役の頃から右腕だったらしく、藤をかばって撃たれたこともある。真っ白でサラサラの白髪は、清潔感と気品さえ漂っている。こんなに格好良いお爺ちゃんがいるのなら、日本も捨てたものではない。衣装の面で一番役得だったのが近藤正臣だろう。背も高く、お洒落なセーターに派手なストライプのパンツを履いている。三十代から五十代の男性が着ていたら、ただ悪趣味に見えるかも知れないが、白髪に金の鎖柄のシルクシャツなどは、七十代だから高級感を持って着こなせる、やんちゃなダンディズム。
中尾彬「はばかりのモキチ」
北野映画での中尾彬の扱いは手厳しい。今回もただ一人死亡する役柄である上に、出棺前の死体を殴り込みに同行させ、撃ち合いになれば盾にされ、もう散々である。しかもあだ名の由来は、汲み取り式のトイレのし尿槽に隠れていて、敵対する組の親分を成功裏に刺した、という逸話からくるとか。ひどすぎる。孫娘の清水富美加が水商売をして稼いだお金で食べさせてもらっている。とにかくすごい役者魂である。
品川徹「早撃ちのマック」
平均年齢73歳という一龍会の中でも、おそらく一番高齢だったのではないだろうか。スティーブ・マックイーンに憧れ、内田裕也のような格好して拳銃を持ち歩いている。しかし、手は中風(?)で震え、その射撃の腕前はとても怪しい。病院に入院していたが、抜け出して合流している。病院では「よしおさん」と呼ばれ、「マックと呼べ」とツッパってみるが、高齢患者以外の何者でもなく、優しく扱われている。
樋浦勉「ステッキのイチゾウ」
先日見たばかりの「座頭市」(2003)でくちなわの親分を演じた樋浦勉。座頭市ばりの仕込み刀の杖を特技とする。いつも和服(着流し)で古風なヤクザのイメージである。登場シーンでのシケモクをステッキに刺して拾うシーンは秀逸。戦う時は当然、逆手斬りであり、座頭市のパロディであることは疑いの余地がない。
伊藤幸純「五寸釘のヒデ」
あまりヤクザな雰囲気はなく、好々爺という感じが可愛らしくて、個人的に一番お気に入りのおじいちゃんヤクザである。手裏剣のように、五寸釘を投げて刺すのが特技。釣り人のような格好をしていて、正装していても、腰に五寸釘を入れておくための弾帯をしている。殴り込みでのシーンでは、どこを狙ったらいいのか分からず、ダーツボードに向けて釘を投げると、偶然にも「ナインダーツ」という神業を成し遂げてしまう。それに恐れおののく安田顕の表情が最高なのである。
吉澤健「カミソリのタカ」
カミソリが武器のおじいちゃんヤクザである。老人ホームで暮らしていて、藤たちから届いたハガキを、若い介護士さんが持ってくる。カミソリが特技なはずなのに、髭剃りの最中に振り向くと、頰は血だらけである。引退したヤクザの風情を、そこはかとなく漂わせている。
小野寺昭「神風のヤス」
右翼かぶれのヤクザである。食品偽装問題である会社をやり玉にあげ、会社の外でシュプレヒコールを挙げている。殴り込みの際は、セスナを操縦し敵のビルに突っ込むという戦略だったが、いざ飛行すると、戦時中、少年特攻志願兵だった血が騒ぎ、赤坂のビルではなく横須賀沖の米軍の空母に着陸してしまう。武運長久と書いた日の丸の鉢巻をしていたり、ちょっと面倒臭いタイプ。
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ヤクザが引退後、年老いたその先には何があるのか、と想像を巡らせるとは、さすがに目の付け所が違う。子供たちに世話になり肩身の狭い思いをしていたり、妻子に捨てられ生活保護を受けていたり、老人ホームに入居していたり、病院に入院していたりするが、やはりはみ出し者ははみ出し者なのだ。ヤクザを辞めたからと言って、突然折り目正しく礼儀正しい人間になるわけではなく、主人公の藤竜也は行く先々で面倒を起こし、世間様に迷惑をかけている。とても同情できたものではないが、そこがポイントなのである。
暴対法以来、衰退した昔気質のヤクザたちに代わり、現代の世にはびこる哲学のない若い詐欺集団が登場する。一応、その新旧のアウトローの対比・対決が描かれるのだが、それは新しい詐欺集団を糾弾し、反対に昔気質のヤクザの義理や人情を美化する、というようなニュアンスでは全くない。若い詐欺集団の卑劣さと同じ重さで、年老いたヤクザたちの素行の悪さが描写され、タイプは違えど、アウトサイダーとしては同類の無法者たちのグループ同士なのである。もちろん、おじいちゃんたちの方を応援したくはなるのだけど、やはり素直に同情できない、食えない輩なのである。
ラストの殴り込みの前に、おじいちゃんヤクザたちが、それまで世話になった人たちに別れの挨拶の電話を入れるのだが、藤竜也が息子にかける電話が印象的である。冒頭とラストに数分だけ映る孫のコウスケだが、「おじいちゃんがいない」と藤の不在を悲しんでいるというのだ。(十姉妹はおそらく先に戻ってきていた勝村が補充したのだろうが、)たとえ孫のペットを食べてしまおうと、どれだけ学校でからかわれようとも、孫はお祖父ちゃんが好きなんだなぁ、とウルっとくる場面である。しかし、藤は最後に逮捕されてしまうので、バスジャックの犯人として新聞やニュースに名前が出たら、家族はまた迷惑するんだろうなぁ、とため息ものである。そこまで考えが及ばないのか、それとも家族に迷惑をかけることを十分解っていても、やはりハチャメチャなことをしでかしてしまう性分なのが、アウトローのアウトローたる所以か。
若い詐欺集団のトップを演じる安田顕は、とことん頭の切れるワルである。しかし、一龍会による殴り込みの際に、五寸釘がナインダーツに刺さっているのを見て、爺さんたちには到底敵わないことに気付く場面の演技が秀逸である。敵わないのは彼らが「ヤクザ」だからではなく、「もう先の短い、怖いもの無しの爺さんたちだから」なのである。この五寸釘でナインダーツのシーンは何度見ても可笑しい。
やはり見所はバスがベンツを追って、下町の商店街を暴走するという、カーチェイスだろう。本当に無茶苦茶な人たちで、華々しいフィナーレを迎える。武演じる刑事が現れ、全員逮捕となってしまう。銃刀法違反、バスジャック、交通法違反、死体損壊、器物損壊など、いずれも起訴を免れなさそうである。
パトカーに乗せられる場面で、近藤正臣が藤竜也に「(監獄から)出てきたら今度は俺が親分だな。だって二人刺したもん」という台詞に、藤は「バカヤロー、てめぇが出てくる頃には皆んな死んでらぁ」と返答するのだが、これは何気に「キッズリターン」(1996)のラストの台詞と反転状態であることに気づいた観客も多かったのではないだろうか。よく考えれば、全編を通して反転しているのかも知れない。初めて自分の道を見つけ、可能性を追求していく青春時代のキッズたちに対し、自分たちがよく知る道、体に深く浸み込んだ生き方に立ち戻っていく老人たち。失敗しても、これから先には未来があるキッズたちに対し、もう明日はない老人たち。作品は、「バカヤロー、てめぇが出てくる頃には皆んな死んでらぁ」というなんとも言えないブラックユーモアで幕を閉じる。