鈴木清順監督の代表作の一つである「ツィゴイネルワイゼン」(1980)は、観客がただの一人として同じ解釈をしないのではないかと思うほどに玉虫色で変幻自在、狐につままれるような不思議な体験が出来る作品である。観るたびにセリフの一つ一つが重みを増してきて、以前気づかなかった発見があったり、自分勝手に深読みしては、新しいセオリーを組み立てたりしたくなるのである。「難解・不可解」だというレビューを多く目にするのだが、「ツィゴイネルワイゼン」の場合は、例えばATG特有の前衛アート的な奇を衒った「難解さ」ではなく、雲を掴むような捉えどころの無さ、もしくは、まだ余韻の残る昨夜の夢が、思い出せそうで思い出せない時のもどかしさによく似ている。鑑賞後は「また清順の術中にハマってしまった」とマゾキスティックに悦んでしまえるほど、多元的に楽しめる映画である。
十人十色の解釈があって然りということで、僭越ながら私の感想を少し綴ってみたいと思う。
この映画は、語り手の「私」である藤田敏八、その親友である原田芳雄、「私」の妻・大楠道代、原田の妻・大谷直子、妻と瓜二つの芸者・大谷直子(二役)の五人の登場人物を軸に展開していく。藤田敏八と原田芳雄の役柄は、まさに一枚のコインの「表」と「裏」、と言いたくなるほど正反対に描かれている。
藤田の役は、現役の陸軍士官学校のドイツ語教授であり、英国紳士のごとくツイードのスーツにシルクハットという洒落た洋装、洋館のような家に暮らし、結婚指輪もいつもはめており、奥方にはだいぶ尻に敷かれている、あらゆることに常識的で、典型的な善人、室内犬のような男。
原田の役は、元はドイツ語教授だが今はただの自由人、常に和装は着物と外套に下駄といういで立ち、「生まれてから一遍だってマトモだったことはない」と自ら豪語するほど非道で身勝手、女性には無分別なことを言うロクデナシ(「結婚なんて冗談じゃない、乳母と女房と芸者を兼ねた重宝な女を置いているだけ。」)、髪や髭は伸びっぱなしの野獣のような男。(しかしこの破滅的なワイルドさは同時にとんでもない色気でもある。)
ジプシーのように旅を重ねる原田は、実は、「死」に取り憑かれて逃げ回っているようでもある。映画の中盤で「女の数をこなせばこなすほど、肉の海に溺れていくような気がする」と述懐しているように、「死」を恐れて女を求めるが、求めれば求めるほどに(逃げれば逃げるほどに)、「死」に近付いていくようなのである。「死」のイメージを、原田は「白い骨」に投影し、その骨の美しさに魅せられることで「死」を受け入れ始めている。「骨は肉の極みですよ」と藤田に吐露し、「僕が死んだら骨を君にあげるよ。その代わり君が先に死んだらその骨は僕がもらう」などと究極の愛の告白のような言葉を口にし、二人が不離一体の関係、表裏一体の対をなすごとく存在であることを確認するのである。
また、「死」のイメージと呼応するように、「生」を象徴するべく「食べる行為」が繰り返し描写されている。海辺に上がった水死体の横で、焼きトウモロコシを食べる原田。うなぎを頬張りながら、葬式帰りの芸者を座敷に呼び、死んだ弟の話をさせる原田と藤田。病魔に冒された妹を見舞った後に、妹の寿命の話をしながら、無数の赤い漆器に入った料理を食べる藤田夫妻。原田の妻の遺骸の横で、通夜振る舞いの弁当をパクパクと食べる藤田の妻は、腐りかけの水蜜桃を食べながら「桃の皮のように、人間も皮を剥いだらヌルッとしている。脊髄の中は糸こんにゃくに似ている」などと言ったりする。
この映画には、「骨」、「赤」、「鏡」、「桜」、「切り通し」などの反復するイメージ(もしくはメタファー)がいくつか出てくる。特に、切り通しの往来は幾度となく繰り返されるのだが、行き来するたびに時空が歪んでいくような、この世とあの世をつないでいる迷路のような、磁場の強さを連想させる。また、トンネルをくぐる、鍾乳洞に入る、橋を渡る、船を漕ぐ、などのシーンも、時空を越えるメカニズムとして使われているようにも見えて、ワクワクするのである。
また「目」も繰り返し現れるモチーフである。三人の盲目の門付け芸人が何度も現れるが、彼らは食欲や性欲など、自分たちの生命活動に発露する欲求に対して正直で、実は活き活きと描かれている。軍歌「戦友」を替え歌で春歌にして歌い、年寄りと若者が若い娘を取り合いし、なりふり構わず三人連なりどこまでも進んでいく様は、強いバイタリティそのものである。健常で裕福な藤田と原田こそ、この盲目の三人とは対照的に、苦悩と憂慮に煩わされ、精彩を欠いているように見えるのである。また、藤田の病床の義妹は、目が見えていないようで、実は見えている。原田の目に入ったゴミを、藤田の妻が舌で舐めて取ってやっていたと、義妹は嘘か誠か解らないような話をして藤田を困惑させる。脳を冒されているらしい妹の言葉を、信じるか否か。
このように、この映画では、現実と夢まぼろし、真実と嘘、あなたと私、生と死、生者と亡霊、現世と黄泉、などの境界線が段々とぼやけて次第に解らなくなり、これら相反するものたちが実はイコールなのではないかとさえ思えてくるのだ。現実は夢で、夢も現実、あなたは私、私はあなた、この世はあの世。その点を踏まえて、誰が生きた人間で、誰が亡霊なのか、誰がどの時点で死んだのか、もしくは最初から死んでいたのか、誰が誰に憑いているのか、どこで時空がねじれたのか、を疑って観ると、なんとなく辻褄が合うような気がしてくるのだが、それはもう従来の物理的法則を超越する量子力学の世界である。
中盤、原田芳雄が砂漠の真ん中で、パンツ一丁の格好で亀甲縛りにされているシーンがあり、「もうやめないか」、「まだやってんのか」と神の声のようなものが降ってくる。この場面ではテイストが大正浪漫からアヴァンギャルドに一転、ホドロフスキー監督のカルト映画「エル・トポ」(1970)を彷彿とさせるような、寂寞としたエキセントリシティに満ちている。もし、成仏できない魂がさまよい続けているような状態を暗喩しているのであれば、「もうやめないか」という言葉には「早く死んだことを受け入れ、肉体を捨て、骨になりなさい」という意味に取れなくもない。そしてその直後、満開の桜の木の下で原田は窒息死し、冒頭と同じく桜吹雪が舞い乱れるのである。
こうなると、実は原田は水死体の女と心中していて、最初から死んでいたのではないか、シャラマン監督の映画「シックス・センス」(1999)やニコール・キッドマン主演の「アザース」(2002)のようなオチで、この世とあの世の狭間に堕ちてしまった、彷徨える魂たちの話なのか。もしくはデヴィッド・フィンチャー監督の「ファイト・クラブ」(1999)のように、原田と藤田は実は一人の人物が持つ、二つの人格で、極悪非道の原田は、平々凡々たる藤田が捏造した身代わりのペルソナだったのか。それとも、すべては元々神経衰弱であった藤田の、気が狂れるまでに見た幻影に過ぎないのか、などとさえ思えてくるのである。
いくら掘り下げても謎めくばかり、という点において、デビッド・リンチ監督作品が引き合いに出されることが多いようだが、「ツィゴイネルワイゼン」には、大正時代の和洋折衷のレトロモダンな雰囲気、日本の怪談・奇談の不気味でいて懐かしい風情、「狐に化かされる」という日本伝統の怪奇現象、この世とあの世、三途の川、草履の裏の六文銭に見られる仏教的な死の概念、など日本人にしか分からない郷土的なニュアンスがあって、それを含めて堪能されるべきであり、洋画とは一線を画している。
内田百閒原作の短編小説「サラサーテの盤」と他いくつかの掌編をフィーチャーし、それらをコラージュして創られたのがこの映画「ツィゴイネルワイゼン」である。海外でも熱狂的なファンがいて、今や「殺しの烙印」と並ぶカルト・ムービーの一つと言える。内田百閒と言えば、いわゆる怪奇小説、幻想文学の名手であり、夏目漱石の弟子であり、芥川龍之介の師匠でもあり、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」(1993)の主人公のモデルである。役柄で出て来た「陸軍士官学校ドイツ語教授」というのは、二十代の百閒の実際の職業であった。鈴木清順監督は、百閒の得体の知れない、奇怪で夢幻的な世界観を見事に映像化し、観客をその虚構に誘い込み、迷い込ませ、惑わせるのである。つまりは一種体験型の映画であり、「難解」だと敬遠してしまう前に、もっと多くの日本人に挑戦してみてほしいと思う。ちなみに、松田優作主演の「陽炎座 」(1981)と沢田研二主演の「夢二」(1991)と合わせ、大正浪漫三部作と呼ばれているが、やはり私はダントツに「ツィゴイネルワイゼン」が好きである。
最後に、「ツィゴイネルワイゼン」とはジプシーの歌という意味らしいのだが、この映画にぴったり符合するのも、清順監督の確信犯的な神業である。