救いようのない閉塞感と絶望感に満ち、また暴力、殺人、いじめ、強姦、貧困、病気、背徳などの不条理や理不尽に溢れ、カタルシスも正義のカケラもないただ後味の悪い映画、というものは枚挙にいとまがない。何のためにその映画を観たのかわからなくなるような、観たことを後悔するような、どんよりと不快感を残す類の作品である。
例えば、黒澤明監督「どん底」(1957)や「どですかでん」(1970)、大島渚監督「少年」(1969)、実相寺昭雄監督「無常」(1970)、寺山修司監督「書を捨てよ、街へ出よう」(1971)、増村保造監督「音楽」(1972)、野村芳太郎監督「鬼畜」(1978)、池田敏春監督「人魚伝説」(1984)、是枝裕和監督「誰も知らない」(2004)、園子温監督「冷たい熱帯魚」、「恋の罪」(2011)、周防正行監督「それでもボクはやってない」(2007)、「終の信託」(2012)、呉美保監督の「そこのみにて光り輝く」(2013)、青山真治監督の「共喰い」(2013)。また、以前の投稿でリストアップした太陽族関連の映画なども、私にとってはその類である。
しかし、ひたすら重苦しいテーマを取り上げた作品群の中でも、鑑賞後には不思議に燦然と輝いて、「この映画、暗いけど、すごい!」と圧倒的な感銘を与えるものがある。ヘヴィーなテーマを扱う映画を撮る時、それぞれ制作側は観客に届けたい狙いがあるのだろうが、ただ観客を嫌な気持ちにさせるだけで終わらず、唸らせることができるのは、制作側の努力が実を結んだ成功例ということだろう。私にとっては、園子温監督の「ヒミズ」(2012)との吉田恵輔監督「ヒメアノ〜ル」(2016)がそれである。監督が素晴らしいのか、脚本が優れているのか、演出なのか、編集なのか、俳優の演技力なのかわからないが、ともかく只ならぬ映画だ、と思ったら、両作とも原作者がなんと古谷実氏であった。
古谷実氏とは言わずと知れた、あの国民的ギャグ漫画「行け!稲中卓球部」の作者でもある。90年代に週刊ヤングマガジンに連載され、シュールな笑いが人気を博し(何を隠そう、私も実家に全巻揃えて所蔵している)、2000年代に入ってからは、突然ギャグを封印して作風が180度変わったことでも話題となった。「ヒミズ」は2001年から2002年、「ヒメアノ〜ル」は2008年から2010年まで同じくヤングマガジンにて連載された漫画である。
賛否両論の映画「ヒメアノ〜ル」は、映画館を途中で退席した人が続出したと聞き、覚悟を決めて鑑賞に臨んだのだが、ただのサイコパス殺人鬼のグロ映画ではなく、軌道を外れてしまった一人の人間の抑圧や鬱屈、悲劇的な過去を描いており、感動的ですらあった。グロテスクな場面については、園子温監督の「冷たい熱帯魚」の死体解体処理シーンを観て以来、怖いものがほぼ無くなったので特に何も思わなかったが、高校時代の回想場面での精神的に追い詰められる様子が、ものすごい負の圧力で迫ってきた。ストーリーの完成度が高いということなのだろうか、ただの暴力的な映画ではない。
「ヒミズ」も本当に悲痛な物語だ。ろくでもない父親に暴力を振るわれる中学生の染谷将太が、ひとりで全うに生きようと運命に抵抗するも、どんどん悪い方向へ押し流されていく子供の非力が哀れでならない。挙げ句の果てに罪を犯してしまうのだが、その展開が見事に自然な流れである。犯行後、染谷将太が泥の中でのたうち回るシーンがあるのだが、それが日本映画において稀にみる鬼気迫る演技であり、この若い俳優が体現する持って行き場のない忸怩たる思いが伝わってくる。同級生役の二階堂ふみの存在が子供ながら頼もしく救いであり、一筋の光である。重いものをすべて振り切るように走るラストの疾走感も良い。