「花芯」について

先日、瀬戸内寂聴原作、安藤尋監督の「花芯」(2016)を鑑賞する機会に恵まれた。今から60年前に発表された短編小説「花芯」は、その過激な内容から非難が殺到、当時の批評家たちはこぞって「ポルノ小説」、「エロで時代に媚びている」、「子宮という言葉を使いすぎる」などと酷評し、寂聴が五年間も文壇から冷遇される原因を作った「問題作」だという。しかし後年、長編小説として書き改められた「花芯」は「子宮作家の傑作」と銘打ってベストセラーとなった。

特に好きな類の小説でも映画でもないのだが、本作はストーリー展開がとても早く、テンポよくサクサク進むので退屈しない。着物や日本家屋の映像美も鮮やかである。そして毬谷友子と安藤政信のキャスティングは特に秀逸。年齢不詳で妖艶な熟女の毬谷友子と、フェロモン駄々漏れの安藤政信という絶妙の配役がなければ、もっと軽くチープな作品になっていたと思う。個人的には、この二人の関係の方がはるかに美しく愛と浪漫とエロスに溢れていると思うのだが。

この映画で村川絵梨が演じるヒロインの女を、多くのレビューワーが「愛にまっすぐに生きた強い人」とか「性に貪欲で自由な生き様」などと褒めそやすのが、全くもって腑に落ちない。彼女の人を小馬鹿にしたような冷たい態度や、人の気持ちに寄り添わない不躾な言葉は、決して「自由で強い女」の象徴ではないと思う。サイコパスかアスペルガー症候群でもない限り、ただの無作法で非常識で無神経な女である。夫は普通の優しい男なのだが、主人公にとっては魅力的に映らず。いくら夫を愛せないとは言え、人間としての最低限の礼儀、配慮、思いやりすら完全に欠落している、こんな理不尽な女の役を演じきった村川絵梨が偉いと思った。

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ストーリーは1945年、主人公の女性を演じる村川絵梨が年上の男性と路上で抱き合っているシーンから始まる。男は「これ以上は求めない。君を汚すことはしない。君はまだ純潔なんだ」といって体を離すが、村川絵梨は醒めた表情で何も応えない。

絵梨の家族と、婚約者の林遣都とその母が食事を共にしている。絵梨との安定した生活のため、工学部に無事転部したと報告する遣都に、絵梨は「本当は徴兵逃れでしょう。理系の学生は学徒出陣を逃れるから」と冷たく言い放ち、団欒の場は凍りつく。

やがて絵梨と遣都は結婚し、子供を授かる。遣都は京都支店へと栄転となり、絵梨と遣都は、大家役の毬谷友子の家の離れに住むこととなる。そこには遣都の上司役、安藤政信も下宿していた。古風な日本男児の遣都と対照的に、自由な思想を持つ安藤に絵梨は急速に惹かれていく。

しかし、安藤と二十も年上の毬谷友子は、もう二十年近くも愛人関係にあることを知る。おそらく関係が始まったのは、安藤が大学生となって下宿を始めたばかり頃、ちょうど毬谷友子が夫を亡くしたばかりの頃である。二人の関係を異常だ、不潔だと批判する遣都は、絵梨の沈黙を世間知らずのお嬢さんがショックを受けてしまったのだと誤解する。

しかし苦しくて食事ものどを通らず、夫の目の前で堂々と恋煩いする絵梨は、「私、越智さん(安藤政信)を、好きになってしまったの。恋だと思う」などといけしゃあしゃあとのたまうのである。

やがて母と妹が預かっていた息子を連れてくるが、絵梨は布団をしいたまま伏せっている。状況がわからぬ母は第二子を懐妊したのでは、と喜ぶが、絵梨は事情を把握した妹に「あなたになら分かるわよね、私の気持ち。苦しいの」と言って泣き崩れるのであった。久しく会った可愛い息子にも全く興味を示さない絵梨は、神経衰弱を患っていると周りに思われ、母と妹はまだ幼い息子を東京へ再び連れ帰るのである。

夜、部屋を抜け出した絵梨は安藤が毬谷の部屋へ向かうのを目撃する。そして、二人が体を重ねるのを見てショックを受ける。翌日、自分に好意を寄せている学生と、あっさり寝てしまった絵梨は、遣都との行為のあとに「愛があるから感じるわけじゃないのよ。試してみたんだから、本当よ」と告げる。他の男と寝たのか、とショックを隠せない遣都に追い討ちをかけるように、「好きな人に抱かれたら、どんなになっちゃうんだろう」などと夢見がちな表情でほざくのである。心の中で思っておけばいいものを。

遣都は東京へ戻ることを決意する。絵梨は一足先に東京へ向かうこととなったが、どうしても最後に一目、安藤に会いたいのだ。遣都に「そこの神社でお守り買ってきて」とうまく騙し、一目散に安藤に抱きつきに行く。

後日、箱根で落ち合う二人はようやく思いを遂げる。しかし絵梨はその後「覗いちゃいけない深淵をのぞいちゃったんだわ、私」と投げやりな口調で言う。(瀬戸内寂聴自身がインタビューの中で「覗いちゃいけない深淵」とは、「それは、セックスの極地です。極地といっても色んな段階があると思うのですが、もうこれが最後、という官能的なセックスをしたら後はつまらくなってしまうということです。」という明確な答えを出している。)つまり、男はこの頂点を恋の始まりだと考え、女はすでに下り坂を見て、恋の終わりを考えていた。

結局、毬谷とは別れられない安藤と、いつしか独り暮らしをする絵梨とは、逢瀬を重ねるだけの数年を送る。ある夜、絵梨は「相手が誰であれ、子宮は恥知らずな呻き声を上げるのよ」と呟く。絵梨は、一夜限りという決まりで、色んな男と寝ていることを安藤に告げる。「どうして愛してない男とそんなこと」と問う安藤に、絵梨は悪びれもせず答える「愛?そんなもの、あなたにもないわ。あなたに恋をした、多分それは本当。でも箱根の夜で終わってしまった。」ショックを受ける安藤だが、「また来るよ」と言い残して去って行く。

ラストシーンでは、絵梨が軽やかな黒いワンピースで母親の葬儀に参上する。妹、遣都、息子が仲睦まじい家族のように並ぶのを見て、安心したように微笑む。呼び止める妹を残して、絵梨は軽快に階段を降りて行く。「私が死んで焼かれた後は、白いか細い骨の影で、私の子宮だけが焼け残るんじゃないかしら」と独りごちながら。

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主人公は、粋な芸者のような着物の着こなしや歩き方をし、振る舞いや話し方も、とても良家のお嬢様とは思えないはすっぱさで、よほど品位に欠ける女性像である。母と妹は普通の身なりの女性たちである。作中に出て来る「君という女はカラダ中のホックが外れている感じだね」という表現の通り、隙だらけでルーズでゆるくてほどけているような、本能に引きずられるだけで哲学を持たない女、という印象である。手をかけない限り「自然界のものはすべて秩序ある状態から拡散した状態になっていく」という自然の原理(「エントロピーの増加」)をそのまま生きているような、自戒のないだらしなさ、倫理観の無さ、しらけた不遜さ。しかし、これをセンセーショナルでカッコいい、という風に語るのが気持ち悪いのは、私が個人的に、原作者の瀬戸内寂聴女史がすこぶる苦手だからかも知れない。

親が決めた縁談で、相手を愛せなかったことは不幸かも知れないが、この主人公は心も体もだらしなくて自堕落で、何もかもに義も筋もケジメもない。そもそも、嘘をつきたくないだの、嘘をつけない性格だのと言って、相手を不幸にするだけの罪の告白は、自分の心を軽くしたいがためのエゴイズム。責任持って清算できないのなら、ずっと心に秘めて自分だけが苦しめばいいものを、残酷にも負担を相手に丸投げするのである。

寂聴が本作「花芯」を実体験に基づいて脚色しているのは、自叙伝を映画化した「夏の終わり」(2013)との類似性を見れば明らかである。(夫の教え子と恋に落ち、夫と子供を捨てて駆け落ちし、その駆け落ち相手の男に捨てられ、次は別の妻子ある男と不倫をし、そこに駆け落ち相手の男が戻ってきて、四角関係の泥沼に疲れ果てて出家したという話)。「性における肉体と精神の離反を書きたかったのだ」と寂聴は語っているが、「子宮の命じるままに生きる」肉体のために、「子供を捨てて不倫相手との愛を成就する」精神は、1950年代の日本社会だけでなく、現代でも、どの国においても、多くの被害者が出ることを想像できる人にはきっと受け入れ難いエゴイズムに映るだろう。

過去の過ちを、私小説として切り売りするのは作家として自然なことである。エンターテインメントとして、寂聴の身の上ばなしが人気を博するのは理解できる。自業自得とはいえ、壮絶な過去に負けない図太さは見習いたいものだし、修羅場をくぐり抜けてきた彼女の体験話は、対岸の火事のように下世話なゴシップとしては興味を惹くのかもしれない。

しかし、多くの人に迷惑をかけた不倫を、まるで美談か武勇伝のように取り上げるのはいかがなものか。その過ちを悔いて、不倫を全否定するならまだしも、「恋の醍醐味は不倫である」「不倫には命をかけろ」「恋愛は天災のごとく回避不可」ということを、いまだに吹聴し続けているのが信じがたい。十代、二十代前半の未熟な若者ならまだしも、90歳を超えた尼僧には矩を越えすぎでは無かろうか。寂聴の場合は単純に、不倫のような背徳的で破壊的な行為こそが、アドレナリンやドーパミンなどの報酬系の脳内物質が分泌されるトリガーなのではないかしかし、他人の愛する人を盗むこと、他人が時間と手間をかけて築いてきた家庭を壊すことによって、罪のない子供達を巻き込み、悲しむ人々を生んでしまう、という末路に想像が及ばないのは、90年も生きてきた人間としてさもしすぎる気がするのである。Save

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