「田園に死す」について

寺山修司は詩人・歌人・俳人・劇作家・映画監督・脚本家・作詞家・小説家・随筆家・評論家・競馬エッセイスト、そして演劇実験室「天井桟敷」の主宰として、そのあふれんばかりの文系的才能を存分に発揮し、昭和の前衛芸術ムーヴメントを牽引した天才クリエイターである。

中学生の時分より学校新聞に俳句、詩、童話を投稿。高校時代は句会を結成、俳句大会を主催したり俳句雑誌を発刊。大学中退後は戯曲やラジオ・ドラマを書き、当時旗揚げしたばかりの「劇団四季」に戯曲「血は立ったまま眠っている」が採用される。(このタイトルは天才にしか思いつかないのではないかと、初めて目にした時、私はいたく感銘を受けた。)若くして既に、次々とアイデアが湧き出てきて仕方なかったかのような、精力的な活動の軌跡である。

寺山修司という人を考える時、まず私が個人的に思い浮かべるのは、寺山修司の独特の世界観の系譜が、いかに時空を超えて大勢の芸術家たちを巻き込んでいるか、そして、その継承される遺伝子が、すべからく人間の別の顔、実存の闇(つまりはエログロ)を追求、暴露し続けているか、ということである。

ビジュアル的には、19世紀の無惨絵の月岡芳年、浮世絵・春画の葛飾北斎をベースとし、元祖ジャポネスク・エログロの花輪和一、幻覚系シュール&ポップの横尾忠則、日本の怪奇現象エロの佐伯俊男、いたいけな乙女エロの林静一、クリーピー少女ファンタジアの宇野亜喜良、異次元サイケ・アートの粟津潔。その後は楳図かずお風怪奇少女の丸尾末広、浪漫派耽美ゴスの山本タカト、と系図のイメージは際限なく広がっていく。

また哲学的には、18世紀のマルキ・ド・サド、19世紀のザッヘル・マゾッホから、澁澤龍彦、三島由紀夫、美輪明宏へと連なり、暗黒舞踏の土方巽、状況劇場の唐十郎、大駱駝艦の麿赤兒、早稲田小劇場の鈴木忠志、黒テントの佐藤信。また、勅使河原宏と安部公房、石井輝男、そしてアレハンドロ・ホドロフスキーが連鎖的に喚起される。

「天井桟敷」は1967年の結成から1983年の寺山の死去まで、16年間活動した伝説のアングラ劇団である。劇団結成時のメンバー募集広告には「怪優・奇優・侏儒(しゅじゅ=小人のこと)・巨人・美少女など募集」とあり、寺山がサーカスの見世物小屋のような異色な集団をイメージしていたらしいことは、想像に難くない。(ちなみに「天井桟敷」というのは、劇場の最上階、最後尾のステージから最も遠い、安価な観客席のことを意味する。)

「田園に死す」(1974)は、寺山自身の故郷を詠んだ同名の歌集を原作として作られた映画である。私は基本的に、ATG系のアヴァンギャルドな芸術映画が好きではないが、この「田園に死す」と「草迷宮」は別格である。ちなみにこの二つの映画は非常に似かよっていて、「田園に死す」に対応するソリューションとして、「草迷宮」(1978)が作られたのではないか、と私は密かに考えている。

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「田園に死す」のあらすじは、寺山修司自身を投影した少年時代の「シンちゃん」が、人の目や因襲にとらわれた田舎の窮屈な村社会から、そして自分を溺愛する母親の呪縛から逃れんと、近所の美しい人妻と駆け落ちするという主軸のストーリー・ラインがあり、村に巡業でやってきたサーカス団の奇妙な人々の生態、父なし子を妊娠している女の赤ちゃんの行く末などのサイド・ストーリーで彩られている。

しかし途中、画面がセピア色がかった白黒映像に切り変わる。前半はすべて劇中劇であり、大人になったシンちゃんが作っている映画の映像に過ぎなかったことが判明する。バーで紫煙をくゆらせながら、大人のシンちゃんは批評家の男に「行き詰まっている。子供時代を売りに出してしまった。書くつもりで対象化した途端に、自分も風景も厚化粧した見世物になってしまう」と吐露する。批評家の男は「過ぎ去ったことは虚構。原体験から解放されない限り、人間は自由になれない。記憶を自在に編集できるようでなくては、本物の作家ではない」と答える。しかしシンちゃんはなぜか、その助言に逆らうかのように、「(映画の)私の少年時代は私の嘘だった」と懺悔し、残酷な少年時代の原体験を追憶し始めるのである。

まず、駆け落ちは大失敗であった。寝床をそっと抜け出すつもりが、母親に見つかり怒られ、「母ちゃんを殺して行け」と大修羅場。やっとの思いで振り払って家を出たのに、待ち合わせ場所に人妻は現れず、騙されていたと知るのである。人妻は、そもそもシンちゃんが思い描くような清純な女性ではなく、戦後の混乱の中、夜逃げし淫売となった過去を持ち、地主の家に嫁いだが、昔の恋人であった共産党の男と再会し、最後には心中してしまうのである。また、父なし子を産んだ女は、「赤ん坊にアザがある。犬憑きじゃ。祟りじゃ。村中が凶作になる」などと村の人々に疎まれ忌まわしがられ、間引きさせられる。そして怪しいサーカス団は本当は変態倒錯者の巣窟であった。

大人のシンちゃんがいつの間にか過去にタイムスリップ、少年のシンちゃんと合流する。大人のシンちゃんは大人になっても母親と一緒に暮らしていて、その呪縛からは永遠に解かれないことを打ち明ける。絶望する少年のシンちゃんと大人のシンちゃんは、今のうちに母親を殺そうと考える。しかし、凶器の鎌を取りに行く途中で、少年のシンちゃんは間引きした女に拉致されてしまうのである。待ちくたびれた大人のシンちゃんは、ならば自分一人で殺そうと家に帰るが、少年ではなく大人のシンちゃんが帰ってきても、母親は驚きもせず食事を用意する。向き合って食事をしていると、突然家の壁が崩れ落ち、白昼の新宿の雑踏の真ん中である。村人やサーカス団の登場人物たちが手を振り、青信号を渡ってどんどん消えていくが、母親と大人のシンちゃんはご飯を食べ続ける。「映画の中でさえ母を殺せない」とシンちゃんは独白し、結局どうしても最後まで母親から逃れられない自分を演出するのであった。

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この映画には様々なメタファーが散りばめられ、その意味や目的を想像しながら見るのが楽しい。冒頭の黒装束に黒眼帯の白塗りの老婆たちだが、これは死神のような、呪詛のような「世間の目と集団的な悪意」を表しているのではないかと思う。口さがない人々のうわさ話や、小さな村の因習や陰湿さの人格化ではなかろうか。

少年時代のシンちゃんをはじめ、多くの登場人物が白塗りであるのは、「自分らしく生きているか」が基準になっているのではないだろうか。白塗りなのは主に、ラッパを吹く兵隊、店番のおばさん、地主の母、学生服の老人たち、彼らを引率する添乗員の女性、村の女たち、借金取り、郵便屋、学生服の男子たち、床屋の店主、背広姿の客、であり何かの役割を担う立場の人間である。制服を着ることで個性を殺す、自分を押し殺す、自分がまだ何者なのかを知らない、自分以外の何かを演じているメタファーとしての白塗りではないだろうか。シンちゃんの母親の顔が白を通り越して灰色なのも、「母親」という役割に徹しすぎて自身を忘れてしまったことの具象化ではないか。

また、サーカス団のシーンはすべて淡い虹色の紗を帯びており、インスタグラム風の幻想的な映像美である。これはサーカスの持つ非現実で異次元的な雰囲気をよく表していると同時に、純真無垢な子供の遊び道具である紙風船を連想させる効果を持ち、奇妙な団員たちの変態性や不適切性をサニタイズする役目もあるのではないか。

そんな中、空気女の体にポンプで空気を注入する行為、というのは言うまでもなく擬似的な色事を表現しているのだろうが、何も知らない少年のシンちゃんに空気を入れさせるという場面には、(しかもシンちゃんは下手と文句まで言われるオチ)、何食わぬ顔をした不道徳な大人たち、また女の底知れない怖さや魔物性を垣間見る。

川からひな壇が流れてくるシーンは確かにインパクトがあり、カルト的な要素としても広く知られているようである。一般的に「笑える」「意味不明」「ありえない」などと言われているが、言うまでもなく、ひな祭りは女の子の健やかな成長を祈る行事であり、その象徴である雛人形が流されていくのは、そんな未来を奪われた赤ちゃんの死を嘆く母の心の具現化だろう。悪運や災難、身の穢れなどを水に流して清めるための「人形祓い」の一種である「流し雛」のように、祟られた赤ちゃんを川に流すことで祓い清める、という意味も含むかも知れない。

赤い「火種」と書かれたブリキの箱のようなものを背負い、麦わら帽子に赤い着物姿の女の子が出てくる。この子の役目がイマイチわからないのだが、四年後に撮られた「草迷宮」にも同じ格好の子がカメオ出演している。しかも、四年後の同じ女の子ではないか、と思うのは四年分と思われるくらいの背丈が伸びているからである。当時、火種とは、売り歩くものだったのだろうか。 マッチ売りの少女の日本版だろうか。

ちなみに間引きの女は「草迷宮」では主人公の母親役である。「田園に死す」で美しい人妻の「お母さん、もう一度私を妊娠してください」という願いは、「草迷宮」で母親が主人公に対して言い放つ「お前をもう一度妊娠してやったよ」いう言葉によって、叶えられている。「田園に死す」でも「草迷宮」でも、少年が同じように年上の女性に襲われるが、「草迷宮」ではうまく逃げおおす。悲しみの赤い櫛、母親に対する強烈な愛と憎しみのアンビヴァレンス、好意を寄せた女性が他の男と心中してしまう、というのも共通のモチーフである。

また、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」(2013)は「田園に死す」への(もしくは寺山修司への)オマージュかと思うほどに共通点がある。冒頭のサーカスのテントが、横尾忠則の天井桟敷のポスターをそのまま具体化したような配色であること、白塗りではないが観客や民衆が表情のないお面を被っていること、親への強烈な愛情と憎しみのアンビヴァレンス、ラストの白黒の登場人物の等身大写真も、横尾忠則のコラージュを彷彿とさせる。また、黒装束の老婆たちや「草迷宮」で母親が黒い傘をさして砂丘を歩くシーンは、「リアリティのダンス」では伝染病の病人たちの群れが黒い衣服に黒い傘をさして砂漠を行進するシーンと重なる。

決定的な相違点は、寺山は「過去を美化しようとするが、考え直し、残酷な原体験に回帰した」が、ホドロフスキーは「徹底して自分の過去を美しく書き換えた」点。ホドロフスキーが、父親のハイメとは深く激しい確執があり、虐げられた子供時代を過ごしたことは一般的に知られている。「リアリティのダンス」ではハイメは厳しいが自分を愛しており、そのハイメに旅をさせて、色んな経験をさせ、最終的に穏やかな父親へと変貌させている。「田園に死す」の中盤、大人のシンちゃんに対し、評論家の男が「過ぎ去ったことは虚構。記憶を自在に編集できるようでなくては、本物の作家ではない」と諭した通りに、ホドロフスキーは完全に自分の過去を自在に編集してみせたのである。

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